人間は、まず、理性とか意志力とか、あるいは、根性とか言う前に、まず、他者から無条件の優しさを与えられなければならなりません。なぜなら、人間は、精神的に存在する場所を、優しさ、あるいは安らぎと同じ、精神的に脱力する所に、退落する宿命をもっているからであり、それは、水が低い方に流れると全く同じ物理的法則です。
つまり、その精神的にもっとも健全な形での、安らぐ場を幼少期において、第一義的に持たされていることによって、いつでもその健全な優しさのもつ脱力場としての生活空間の中に物理的に落ち込むことで、それこそが、理性的自己コントロールの真のメカニズムです。
そのような、磁場が、つまり、幼少期において第一義的に、無条件の優しさを与えられたという事実がない場合、潜在的根本的に健全な形での、退落する場をもっていないことになり、いわゆる、短絡的な快楽の「欲求の充足」という形をとったときの満足感という精神的に脱力出来る場に、どんなに、いわゆる社会通念としてのあるいは社会良識としての理論的理性で、どんなに自分自身に「それは、やってはいけないことだ!」と言い聞かせても、いかんせん、その短絡的快楽の持つ脱力場に、自分自身が落ち込むことを物理的に抑えることができなくなります。
いわゆる過食症とか、パチンコ依存症とかの、ある種の快楽にどこまでものめり込んでいく精神的障害の本質はそこにあるのではないでしょうか? そして、そのような人の、家庭環境、親子関係などの分析をした場合、幼少期において、別の兄弟だけが可愛がられたというような、いわゆる、他人から与えられなければならない無条件の優しさが欠如していたという現実が浮かび上がってくるのです。
43歳からギターを独学で始めて、今までに大学ノート54冊分の、運指の研究をしてしまったという、ちょっと変人の私ですがー
しかし、そのギター運指の研究から、人生の生き方について多くのことを学んだことも事実です。今日はその一端を紹介しましょう。
一つの例は、右指のフィンガーピッキングの研究からです。右指は、クラシックギターのような弾弦する場合、小指は、一般的にはほとんど使いません。例外的には、フラメンコギターでの右指全指を使ってのラスゲアードがありますがー
この小指は、実際には、弾弦しないので遊んでいるのですが、しかし、右指全体の弾弦の運指能力にとっては、その動きは極めて重要であるということがわかってきました。この遊んでいる右指の動きには、次のような特性があります。
1、遊んでいるが、完全に遊ばしておいたのでは、指の動きの機能が、少なくともギターの弾弦という能力においては、機能的に退化してしまい、いずれ、右指全体の動きの能力に影響するようになる。
2、かといって、かってに指を自由に動くように遊ばしておいたのでは、全体の動きとのバランスがとれない。
これらのことから、次のような動きが出来るように訓練する必要があります。
つまり、右指の小指は、弾弦はしないものの、常時他の指と同じように、微妙にわずかに動かしている必要があり、その動きは右指全体の動きとのバランスをとるような擬似弾弦運動をするようにするのであり、特に、隣の薬指、あるいは中指の動きとのバランスのとれた連動をするようにすることが大切で、その連動の優先順位は、薬指が第一位であり、中指が第二位です。
このようにして、遊んでいる小指にも、一定の役割と機能をもたせ、その動きが正しくできるようになると、次のような効果があります。その最大の効果は、親指の弾弦時での右手全体の支点のぶれとの関係です。もし、この小指の動きが、正しくおこなわれていないと、親指で弦を弾いた場合、弦からの反動を受け、右指全体の支点が、親指側に引きづられてしまい、手全体の支点が動いて、いわゆる支点の定まらない右指全体の様相を呈してしまいます。
逆に、この小指の動きを正しくバランスの取れたものとして維持できるようになると、親指で弦を弾いたときも、あくまで、親指を右手の中央の支点の方向に親指を動かし、弦を引っ張ることが出来るのです。
このことを、私たちの日常の生活のことに置き換えてみましょう。遊んでいる小指とは、私たちの休日の過ごし方や、リラックスして休養している状態と言えます。つまり、このリラックスしている状態が、全く遊んでしまっていては、私たちの社会生活の能力は退化してしまうのであり、本業とのバランスの上で、それと連動するような状態での軽い擬似運動の中で、リラックスしているということが重要であり、この休養のあり方が、正しく行われていないと、その本業での動きによって、自分の生活の主体性の支点が、大きく、その作業対象の方向に引きづられていくということになると理解出来ないでしょうか?
平凡な時が、否応なく流れていけばいいのです。たとえ、不満だらけでもー たとえ自分は恵まれていないと思っていてもー
むしろ、その中でも、平凡な時が否応なく流れていく所に、ある意味健全な諦観があり、心と人生の落ち着き所があるのです。
しかし、その為には、そのごくありきたりの平凡な生活の中に、一定の、あるいは最低限の安らぎというちょっとした快楽がなければなりません。ほんのちょっとした快感が、その平凡な生活の中にあれば、様々な絶望や、不満や、誘惑に対抗して、快楽的に、そのありきたりな平凡な生活を選択でき、その中で、否応なく時がながれていくところに、理性的生活のもっとも妥当な落ち着き所、落とし所があるのです。
そのことを良く理解している 人を、いわゆる聡明な人と呼ぶべきではないだろうか?
荒野幻想
豊原広路
身を投げよ! 荒野にー
まずは、晩秋の原野にー
そこは、決して殺伐とはしていないー
肌色に枯れた雑草の上にー
まずは、ひざまづけー
絶望感からふと気が付くと
なぜか周囲に優しい雰囲気を感じるはずだー
そこでは、すべての草木が生存競争の手を休め
すべてが一様に朽ちかけていてー
なぜか優しい雰囲気が漂っている
肌色に枯れた雑草は、動物の毛並のように温かくさえある
そこで、思いの他癒され、ふと我に返るー
そうだ家に帰らなければーと
そして、もう一度頑張らねばとー
ある時、あの荒野に漂っていた自然の優しさが
ごく身近な自然のどこにでもあることに気が付く
さりげないごくありふれた自然の中にー
ここにも! あそこにも!
そして、自分がいつどこにいても、それらの自然に見守られていることに気付く
荒野に身を投げよー
荒野であればこそ、私のいかなる姿態も、許し受け入れてくれるはずだー
荒野であればこそ、あるいは広野であればこそー
荒野であればこそ
いかなる苦悩も受け入れ
いかなる形の再生も促してくれるはずだ
荒野に母性を見て取る
荒野に菩薩あり
荒野よ! 広野よ!
我を救いたまえ!
電子書籍「草木自身のポエムの名において」
今日は、午後3時頃まで、畑の自家用野菜のトマトのビニールハウスを解体して、片付けました。その後、同じ場所に、今度は冬用野菜のホーレン草を播種しました。'06.10.29
法連とは、チベットの和名のようで、その名の示すとおり、高冷地での栽培に適した野菜のようです。なんでも、野菜栽培の参考書によると、マイナス5℃位は大丈夫のようで、場合によってはマイナス10℃でも持ちこたえられるようで、いわゆる越冬野菜ということです。
栽培用のホーレン草の種子は、外国産のものが多いですが、その味で、私がいままで食したうちで最高なのは、日本の在来種の「おかめ」というホーレン草です。これはうまい! いわゆる「ほっぺたがすっ飛ぶ!」ほどの美味しさで、いかなる賛辞もけっして大げさではありません。コーヒーかビールの宣伝のコピーではありませんが「シャリッとしながら、コクがあるー」ってとこでしょうか。
周囲の自然の紅葉をバックに発芽ー '06.11.12
播種から14日目
途中で、1日霜が降りて、もう発芽はしないかな?
と思いましたが、いや~、驚きました。強いものです。
今日、これから、ビニールの囲いをしたいと思います。
ホーレン草ビニールハウス完成
少し汚れたビニールですが、ありあわせです。






