まず、私の特技が「身の程をわきまえぬはったりを言う」ことであることを明記した上で、又、暴言を述べてみたいと思います。

それは、表題のように、「対核通常兵器以外完全無抵抗主義国家」という概念です。


 北朝鮮の核実験を機に、政府の閣僚らから、日本も核武装について、非核三原則は堅持するものの、論議位はしてもよいのではないかという意見が出ています。しかし、これは全くナンセンスではないでしょうか? なぜなら、技術的かつ防衛論的に正当性があろうとも、環境的かつ国際状況的に、全く実行出来る可能性は、限りなく0に近いのではなく、完全100% 0だからです。

全く、実行の可能性のないことを、議論に乗せること自体が、何の意味も持たないからです。


 なぜ、実行する可能性が100%0なのでしょうか?

私が考えるに、その理由は、次の三つくらいです。

1. 一旦核兵器を持ち、それが、核抑止力としての実際の効力を持つ兵器のレペルを維持するためには、一度や数回の核実験では、そのレベルを維持することは出来ず、素人が考えても、十数回とか、数十回の核実験が不可欠です。北朝鮮のような、あるいは、アメリカ、ロシア、インド、といった国のように、専制国家や、広い国家ならともかく、この狭い日本のどこで、その近隣の住民の同意を得て、どこで出来るというのでしょうか? 十数回の核実験をー 原子力船が港に寄港したり、プルトニュームの再生施設の建設でさえ、住民の反発をえているものがーです。

2. 平和憲法と非核三原則を堅持してきた日本が、核武装することの正当性をアジアの近隣諸国に認められたとすれば、その時は、この平和憲法を掲げてきた日本でさえ核武装するというのですから、アジアのすべての国家が皆核武装を認め合うという状況になるでしょう。それは、核拡散防止条約などの主旨に、真っ向から逆行することになり、地獄絵そのものとなります。そんな状況をお互いが認め合うことなど、市民レペルの感覚としてありえないのです。もし、それをあえて国家がやろうとすれば、その時は、国家を無視した、国境を越えた市民レベルの国家、あるいは、近隣諸国市民レベル共同体が、インターネットのブログなどを駆使して誕生する可能性さえあります。

3. 一旦核武装し、しかも、お互いが同じ位のレベルの兵器をもつことで、核兵器の均衡バランスで平和を維持しようとすれば、当然、お互いが競争することになり、特に、後進国、特に北朝鮮などは、膨大な予算を投入せざるを得なくなり、その国の経済的な状況は、ますますひどくなり、ますます緊張が高まります。


 素人が考えても、数十分でこのようなことが思い浮かぶのであり、このような状況の中では、日本が核武装することなど、全く 許される状況ではないのです。議論する意味もないほどです。切迫した現代の地球と国際状況は、すでに、抜け道の見えないパンドラの箱に突入しているのではないでしょうか?


つまり、このような状況でもあえて、日本が核武装しても、それは、ほんの慰み物になるにすぎず、新たな収拾のつかない緊張がうまれ、核武装した意味など、すぐにどこかに吹っ飛んでしまうような結果になるのでないでしょうか?

ならば、そのような意味のない核武装論など100%放棄し、むしろ、どうせ核武装しても収拾のつかないパンドラの箱にはいり、結果として核武装しないことをうわまわるメリットが何もないとするならば、いっそのこと、「対核通常兵器以外完全無抵抗主義国家」であることを、現時点で宣言するという手はどうでしょうか?


 もちろん、単なるこれははったりではなく、国民は、核によって攻撃されても、通常兵器以外いっさい反撃しないことを覚悟しなければなりません。極めて高度な人格的にー しかし、核武装しても同じ結果なのですからー

もし、「対核通常兵器以外完全無抵抗主義国家」であることを宣言している国を核攻撃した国はどうなるでしょう?

言うまでもなく、国際社会の中では、生きていくことはできず、その国家自体の中で、この核戦争を実行した政治家や政治組織は、粛清されざるを得ないでしょう。つまり、それこそ、核に対する最大の抑止力ではないでしょうか?