鳴門(なると)は成十(なると)と同音です。言霊から言えば同じ意味をもつハズです。
五十黙示録 星座の巻 第二帖
ナルの仕組とは【成十】(七
十)の経綸であるぞ、八が十になる仕組、岩戸(言答)ひらく仕組、今迄は中々に判らなんだのであるが、時節が来て、岩戸がひらけて来たから、見当つくであろう、富士(二二、普字)と鳴門(ナルト)(七
十、成答)の仕組、結構致しくれよ。
この帖では、鳴門(成十)とは「八が十になる仕組み」と明確に記載されています。そして富士(二二)の仕組みとセットであることもはっきりと記載されています。ここでいう「八」とは一体なんのことでしょうか?
結論からいえば、「一から八」とは最初の岩戸が閉じられたあと、「現世」に戻って来られた伊邪那岐の大神一柱で産まれたもの(原子、分子、あるいはそれらの構成物)を指します。一柱の神ではせいぜい七、八までしか産めないとなっています。
では「十になる」とは一体なんのことでしょうか?ヒントになる文が次の帖に載せられています。
五十黙示録 碧玉の巻 第五帖
七は成り、八は開くと申してあろうが、八の隈(くま)からひらきかけるのであるぞ、ひらけると
と九と十との三が出てくる、これを宮と申すのぞ、宮とはマコトのことであるぞ、西と東に宮建てよと申すこと、これでよく判るであろうが、マコトの数を合せると五と五十であるぞ。中心に五があり、その周辺が五十となるのであるぞ。これが根本の型であり、型の歌であり、型の数であるぞ、摩邇(マニ)の宝珠(タマ)であるぞ、五十は伊勢であるぞ、五百は日本であるぞ、五千は世界であるぞ、このほう五千の山、五万の川、五億のクニであるぞと申してあろうがな。
この帖から分かるように「十になる」とは八の隈から
、九、十がでてくることを意味します。この
、九、十は伊邪那岐の大神と伊邪那美の大神が再度夫婦神となられて新たに産んだ(造られた)もので、このことを「宮」または「マコト」といいます。つまり「〇から十」そろって「マコト」=「本物」になるということになるのです。これは今はまだ見つかってはいません。伊邪那岐の大神と伊邪那美の大神がもう一度夫婦神になられてから造られる(または見つかる)ことをほのめかしているです。「岩戸開き」後の話です。
余談になりますが、現在の発見されているすべての原子はK殻、L殻、M殻、N殻、O殻、P殻、Q殻の7つの主軌道(注意、副軌道はもっとあります)までしかなく、この軌道に電子がいくつ入るかでおおよそ原子の性質はほぼ決定されてしまいます。もし現在見つかっている最後の主軌道の外縁に新たな主軌道が出現(あるいはみつかり)、主軌道の数が11軌道になってしまったら、一体どんな物質(あるいは状態)になってしまうのでしょうか?原子的レベルの話では、おそらくK殻の内側に、零殻なるものができるのでしょうか?それとも原子核を零殻とみなして、そしてそこに
(幻子、玄子と言われているもの?)を神様はお入れなるおつもりなのでしょうか?しかも(0,1,2,3,4,5,6,7,8,9,10)軌道とその真逆の配置を持つ(10,9,8,7,,6,5,4,3,2,1,0)軌道を持つもの(あるいは状態)が出現したら(もしくは発見されたら)?つまり二二になったら?まったくもって分かりませんが、おそらく「半霊半物質」のような状態になってしまうのではないでしょうか?
いずれにせよ、そうなればいまの物質そのものも完全に変化してしまうことになるでしょう。当然ですが、根本的な力(重力、電磁気力、弱い力、強い力の4つの力)による物理作用も今までとは異なってくるように思われます。
ただしこの帖そのものは主に「言霊、数霊、神霊など」霊的な面のことも述べているように思われますので、物質的な面だけをこれ以上追及するのはやめておこうと思います。意味深なこの帖を皆様も一度は考えてみてください。
下つ巻 二十一帖 (六三)
ばかりでもならぬ、
ばかりでもならぬ。
がまことの神の元の国の姿ぞ。元の神の国の臣民は
でありたが、
が神国に残り
が外国で栄へて、どちらも片輪となったのぞ。
もかたわ
もかたわ、
と
と合はせて まことの
(かみ)の世に致すぞ。今の戦は
と
との戦ぞ、神の最後の仕組と申すのは
に
入れることぞ。
も五ぞ
も五ぞ、どちらも、このままでは立ちて行かんのぞ。一厘の仕組とは
に神の国の
を入れることぞ、よく心にたたみておいて呉れよ。神は十柱五十九柱のからだ待ちてゐるぞ。五十と九柱のミタマの神々様お待ちかねであるから、早うまゐりて呉れよ。今度の御役大層であるが、末代残る結構な御役であるぞ。七月の二十四日、一二のか三。
五十黙示録 星座の巻 第八帖
人民一度死んで下されよ、死なねば甦られん時となったのぞ、今迄の衣をぬいで下されと申してあろう、世がかわると申してあろう、地上界の総てが変るのぞ、人民のみこのままと言うわけには参らぬ、死んで生きて下されよ、タテカヘ、タテナホシ、過去と未来と同時に来て、同じところで一先づ交じり合うのであるから、人民にはガテンゆかん、新しき世となる終りのギリギリの仕上げの様相であるぞ。
この帖からは、
(一、二、三、四、五、六、七、八)ばかりではいけない。
(〇、九、十)ばかりでもいけない、ということが分かります。つまり肉体(物質でできた体、現界)だけではいけない。霊魂(霊界)だけでもいけない、ということなのです。
じゃあ、一体全体どうしたらよいのでしょうか?そこで神様は、「
(一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、〇)でできた本物の姿(または元の体)」におなりなさい(あるいはお戻りなさい)とおっしゃっておられるのです。つまり一度は死んで、新たな「半霊半物質」の状態で蘇って、「神カカリ」状態になりなさいと・・・。そしてこの
になる(もしくは元の姿に戻す)ことこそが、「一厘の仕組み」でもあるわけです。大峠を越すための仕組みというわけです。もちろん現世の方々全員が全員そうなるわけではありません。次の「ミロクの世」にいけるものだけに起こる仕組みなのです。「ミロクの世」にいけない方々は肉体的に死んだあと「半霊半物質」で蘇ることはありません。そのまま霊魂ごと消されてしまうようなのです。以前お話した内容(人民一度死んで下されよ)とはここで繋がってきます。できれば併せてお読みください。