「生命の木(セフィロトの木 )」というものをご存じでしょうか?それはユダヤ教のカバラ神秘主義における重要なシンボルで、宇宙の構造人間の精神的成長(日月神示ふうに言えば「身魂磨き」あるいは「霊的進化」でしょうか?)を象徴するものであり、深い哲学的かつ宗教的意味合いを持ち併せています。セフィロトの木は、神のエネルギーが流れる10個の球体セフィラ)と、それらを結ぶ22本の経路パス)で構成されています。そして10個の球体(セフィラ)とは別に、には出てこない(の存在である)11番目のセフィラが存在するとも言われています。そのセフィラは「ダアト(Da'at」と呼ばれ、他の10個のセフィラの集合体として存在し、全体の理解や知識を表し、「王冠のセフィラ」と「美のセフィラ」とのみパスを持っています 。つまりダアトは他のセフィラとは異なり、「隠されたセフィラ(数字のゼロのようなもの)」です。「日月神示」にでてくる「とよく似た役目・役割をもっています。「無いけど有る、有るけど無い」そんなかんじの存在です。

 「日月神示」における「富士(二二)の仕組み」の説明とは異なっていますが、この宇宙の構造を語るうえで(あるいは霊的進化を語るうえで)、ユダヤ教でも「11(ただし表に現れる要素は10)」と「22」という「数」を重視しているということは注目に値することです。よって「セフィロトの木」における説明をもって「富士(二二)の仕組み」も説明しようとする方もおられます。しかし「セフィロトの木」における説明は、「富士(二二)の仕組み」を理解する上でたいへん参考にはなりますが、それだけでは多分片手落ちのように思われます。神様のなさる仕組みことは何事も「表」と「裏」があることを忘れてはいけません。「表裏一体=二ホン(二本立て)」で始めて全体が理解できる仕組みになっているのです。しかも「裏こそ本物」であることも忘れないでください。

 「カバラ」が「表」なら、「日月神示」は「裏」、両方理解できて始めてこの謎(「宇宙の構造・霊的進化」、あるいは「三千世界の真理」)が解けるのです。急ぐことはないと思われます。まずは「鳴門の仕組み」が起き、次に「富士の仕組み」が起きるのを待てばいいのです。それから初めて「三千世界の真理」が本当にわかるようになるのです。ただし、そのためにはまず「大峠」をなんとか越す必要があります。それができなければ、「三千世界の真理」の追究なんて夢のまた夢です。何せ「大峠」を越すことができなければ「零あるいは無」からの再スタートになるのですから。人によっては「石・鉱物」からの再スタートといわれる方もおられますし、「植物」や「魚」からの再スタートといわれる方もおられます。いずれにせよ、「三千世界の真理」の追究はいったんお休みとなります。遠のいてしまいます。何回も「生まれ変わり死に変わり(輪廻転生)」をやって、やっとここまで辿り着いたのにもったいない話です。このブログを読まれている皆様は、そのことは十分承知の上で日頃から「身魂磨き」に励んでおられると思いますので、今回はこの話をこれ以上せず、話をもとに戻します。

 さて「鳴門の仕組み」ですが、それが起きればどうなるのでしょうか?物質そのものが変わる(おそらく「半霊半物質」になる)のです。これは 「半霊半物質」のカラダ(入れ物、衣)ならなければ分からないことが、自然と理解できるようになることを意味します。「物質」のみでできた肉体や脳では「見えるもの」も「聞こえるもの」も「感じること」もすべてに限界があります。従って限られた情報や知識等を用いて、いくら頭をひねってみたところで、出てくる答えも真理とはいいがたいものばかりです。答えをだす頭(脳組織)も物質でできているのですから当たり前のことです。コンピューター(AIや量子コンピューターなど)を使ってもコンピューター そのものが物質でできている限りは同じことです。人間の目で見えるものや耳で聞こえるものには限界があることくらい既に分かっています。例えば人間の目では可視光の領域までしかとらえることができません。それより低い周波数の光(赤外線、電波等)や高い周波数の光(紫外線、X線、γ線等)は機械を使ってしかとらえることができません。赤外線カメラ、TV用のアンテナ、紫外線カメラ、X線カメラ、レントゲン写真等を使わずにこれらのものは見えし、利用もできないのです。放射線等は肉眼では見えないものですから、知らず知らずのうちに被ばくしてしまい、必要以上に恐れられています。あるいは人によっては恐怖すら感じないのです。見えないからと言って放射線が存在しないわけではないのです。もし肉眼で放射線がみえたのなら、放射線に関しても考え方に変化がきっと起こることでしょう。同じことで 「半霊半物質」のカラダになれば「肉眼」のほかに「霊眼」でもみることができ、いままでとは違った世界がみえてくるのです。「物質の世界」と「霊の世界」の両方がみえるようになるのです。TV等で出てくるどこそこの霊能力者みたいですね。視覚だけではありません、「聴覚」、「嗅覚」、「味覚」、「触覚」、「温痛覚」等という情報もすべて両方の世界から会得することが可能になるのです。情報源や情報を得る手法が変わったり増えたりするのですから、当然それらを基にした「考え方」や「感じ方」や「理解の仕方」等も変わってきて当たり前になるのです。


 

地震の巻  第十帖
 地上人は、内的に生前の霊人と通じ、また死後の霊人と通ずる。・・・・・これは、平面的頭脳では、中々に理解しがたいのであるが、この根本原理を体得、理解し得たならば、神、幽、現、三界に通じ、永遠に弥栄する大歓喜に住するのである。されば差別は、平等と合一することによって立体の差別となり、平等は差別と合一することによって立体平等となり得る。霊人が地上人と和合し、また地上人が霊人と和合し、弥栄するのは、この立体平等立体差別との弥栄ゆるが為であることを知らねばならぬ。この二つの相反するものを統一し、常に差別しつつ平等に導き、立体していく力こそ、神そのものの力であり、歓喜である。この二つの力と神の歓喜なくしては、地上人なく、また霊人もあり得ないのである。生成発展もなく神も歓喜し得ない。この力なくしては、地上人は霊人と和し、神に和し奉ることはできない。故に、生命しないのである。


 

地震の巻  第二帖
 天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては、生命の統一はなくなる。其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。  については一なるも、  に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。しかし、大歓喜にまします太神の  は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体を遥かに越えた超立体無限立体的無の存在なるが故である。・・・・・かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。

 

これらの帖は肝中の肝です。極めて大切なことが書かれています。すんなりと素直に理解できなければなりません。しかし実際はどうでしょうか?理解に苦しむ方が多いのではありませんか?それはどうしてでしょうか?多分、理解しがたい単語や概念が多分に出てくるからではないのでしょうか?例えば、これらの帖には「平面的頭脳」、「立体平等」、「立体差別」、「超立体」、「無限立体」等というキーワードが出てきます。言っている意味が理解できますでしょうか?数学的表現に直しますと、「平面」→「二次元」、「立体」→「三次元」、「超立体」→「多次元」、「無限立体」→「∞次元」というふうに書き換えることができると思います。人間の頭(肉体の脳組織)なかでは「二次元」、「三次元」までは抵抗なく使えますし、なんとなく理解できたような気になれます。しかし「四次元」以上になるとどうでしょうか?途端に難しくなった気になりませんか?あるいは頭の中で「四次元」的カタチってどんな形をしているの?って思うことはありませんか?どうしてこんなことがおこるのでしょうか?それは人間(肉体)が「三次元」の世界で生きているからであり、当然「三次元」までの「一次元」、「二次元」の「視覚」データは日頃から無意識に自然と処理しているからです。つまり使い慣れているからであり、人間の頭にとっては「朝飯前の仕事」だからです。

 ここでもし仮に人間が「四次元」の世界に住んでいたらどうなるのかを考えてみてください。おそらく「四次元」的図形や概念なんかは、なんの抵抗もなく無意識に使えるようになっていたとは思いませんか?「四次元」の世界に住んでいれば「視覚」から得る情報も、そしてそれを基に頭のなかでも再構築するシステムも自然と「四次元」に対応して備わっていたとは思いませんか?なぜならその能力を持って生まれてこないと「四次元の世界」では生きていけないか、生きていくのがたいへん困難を伴うことになるからです。たぶん聴覚等のその他の能力も同じことです。

 霊を入れる衣(いまは肉体)が変われば霊の発揮できる能力も変わるのです。次の世では「半霊半物質」の「衣」が与えられます。そうでないと「ミロクの世」には対応できなくなるのです。次の「ミロクの世」は「光に満ちた世」であり、「自ら光を発することができる世」であり、「放射能にもビクともしないカラダの世」なのです。つまり「いまとは全く別のモノでできた世」なのです。

 このように使える能力や機能が拡大することで、その能力や機能に応じたふさわしい経験もできるようになり、理解力も格段と向上するようになるのです。なぜなら「ヒト」は元来「カミ」をまねてつくられたものであり、「カミ」と同じ能力を与えられているからです。それに制限をかけているのは「肉体」という「衣」そのものなのです。しかしその鎧のような能力制限付き「衣」を霊がまとっているからこそ、この物質界での行いが全て「修行」になるのです。「なんでも思ったことが叶う、あるいは実現する霊界」では魂の成長が遅れるのです。「霊界での数千年の修行は、この世では100年、いや努力次第ではそれより短い時間でも達成できる」ということを聞いたことはありませんか?感覚も「肉体」だからこそ霊体の何倍も感じることができるのです。温痛覚をはじめ喜怒哀楽も霊の何十倍、何百倍にも感じることができます。つまりそれだけ理解すること、悟る(実際は差取る)ことがより速くそして深くできるようになるのです。

 現時点で理解困難な「平面的頭脳」、「立体平等」、「立体差別」、「超立体」、「無限立体」等の概念も、この肉体(三次元)の世界だからこそ理解しにくいのです。「霊魂の次元」が上昇し使える能力が拡大、そしてそれに対応した新たな経験・体験を重ねていけば、これらのことは自然と無理なく理解できるようになると思われます。そしてそれを何度も繰り返し長い道のりを歩んだその果てには、いずれはこの「三千世界」をおつくりになった「大神様」と同等の理解力を得ることができ、「三千世界の大真理・ミチ」を真に理解することが可能になるのではないでしょうか?

「千里の道(ミチは理)も一歩から」

(ヒトは霊徒)の一生は重荷を負って遠き道(ミチは理)を行くが如し、急ぐべからず

 

次回はもう少し西洋の教え(カバラ、聖書等)と日月神示の関係を探ってみたいと思います。