「セフィロトの木」とは「エデンの園に植えられた木」のうち「生命の木」の方を指し、その幹と枝葉の部分を中央(均衡の柱)と右(慈悲の柱)と左(峻厳の柱)に分け、10個の「セフィラ」を対象的に配置したものです。「セフィラ」は ①ケテル(Keter) 、②コクマー(Chokhmah) 、③ビナー(Binah) 、ケセド(Chesed) 、④ケセド(Chesed) 、⑤ゲブラー(Gevurah) 、⑥ティファレト(Tiferet) 、⑦ネツァク(Netzach) 、⑧ホド(Hod) 、⑨イェソド(Yesod) 、⑩マルクト(Malkuth) があります。そしてそれら10個の「セフィラ」にみえない「セフィラ」である⑪「ダアト(Da'at)」 を加えて、「11」個の「セフィラ」が存在するというように解釈する(説明する)方もおられます。「見えないのに存在する」あるいは「無いのに在る(有る)」というのが、いかにも数字の「0(ゼロ)」のようで面白いですね。⑪「ダアト(Da'at)」 →⓪「ダアト(Da'at)」 にした方がピッタリくると思います。
最後の⑩マルクト(Malkuth)は木では根が集まる部分であり、半分は土の中に、半分は土の上に出ています。この「セフィラ」の配置をそのまま「人」にあてはめて説明することもあります。この場合は①ケテル(Keter)が頭頂部で、⑩マルクト(Malkuth)は(座禅を組んでいれば)足首または骨盤腔底部に配置されます。ちなみに「ダアト(Da'at)」は頚に位置します。そしてその「セフィラ」を繋ぐもの(エネルギーの通り道)として「22」のパスが配置されています。これで「11」と「22」が一応説明できるというわけです。
しかしこれだと「日月神示」における「012345678910」の説明はできても、その真逆の配置である「109876543210」の説明はうまくできません。2つ併せて「22」になると説明されていますので、「22」とは「パス」のことではなく、本当はもう一つ「木」があってそれに「11」個の「セフィラ」が真逆に配置されているのではないでしょうか?マルクト(Malkuth)に相当する「セフィラ」が頂上に、ケテル(Keter)に相当する「セフィラ」が底部に配置されているのではないでしょうか?そして実際に「セフィラ」は「22」個あるのではないでしょうか?ではそれは一体どんな木なのでしょうか?
「クリフォトの木」というのをご存じでしょうか?「クリフォトの木」とは 「セフィロトの木」を上下左右反転させた「木」のことで「邪悪の木」とも「死の木」とも言われています。確かにこれだと日月神示でいうところの大神の御業でグレンと引繰り返せば、いままでとは全く真逆の配置になります。「悪(邪悪)」と思っていたものが「善(生命)」になり、逆に「善」と思っていたものが「悪」になります。「お金・物質(肉主霊従)が一番大事」という概念が「精神・魂(霊主肉従)が一番大事」という概念になります。「社会の上層階の人々」が「社会の下層階の人々」になります。その逆もまたしかりです。日月神示の内容と矛盾せず、一見正しいように思われます。
しかしこれは善悪のバランスをとるために「セフィロトの木」に対応してあとで追加さた概念に過ぎないと考えております。なぜならこの「クリフォトの木」は聖書には記載されておらず、13世紀のカバラの文献「ゾーハル」によって初めて記されているからです。このころのヨーロッパでは「父(ヤハウェ )、子(キリスト)、精霊」の三位一体に対抗して、悪魔もルシファー(堕天使の王)、ベルゼブブ(蝿の王)、アスモデウス(情欲の悪魔)といった三悪魔の概念が成立していった時代でもありました。当然「セフィロトの木」に対応して「クリフォトの木」が人間によって勝手に造られてもおかしくないと考えています。では「109876543210」の正体とは一体なんなのでしょうか?
今のところ2つの考え方があります。①それは「知恵の木」です。「知恵の木」とは旧約聖書の創世記に登場する「エデンの園」に植えられた木のことで、「善悪の知識」を象徴しています。神はアダムとイブに、この「木の実」を食べることを禁じましたが、蛇に誘惑されたイブとアダムが「木の実(リンゴ、イチジク、ブドウ、さらにはバナナ 等の説あり)」を食べたため、楽園を追放される原因となったあの有名な「木」のことです。ただしカバラでは「知恵の木」には「セフィラ」は配置されていません(配置されていないのではなく、隠れているだけなのかもしれませんが)。
この「知恵の木」に関しては多くの違和感や疑問がつきまといます。「知恵の木」とは「エデンの園」にある二本の木のうちの一本です。つまり「生命の木」とで二本(日本)立ての仕組みになっています。しかも「生命の木」と同様に「エデンの園」の中央に植えられています。それほどたいへん重要な木であるにも関わらず、なぜかカバラではあまり詳しくは語られてはいません(実際は重要視されているけど、その内容がヤバくて公表されていないだけかもしれせんが)。「セフィラ」に相当するものすら配置されていません。しかも天国に関わらず、この木にはなぜか蛇(西洋ではドラゴンと共に悪魔・邪悪の象徴)が存在しています。なぜ天国に蛇がいるのでしょうか?謎ばかりです。まさに隠れた存在です。
「109876543210」の正体のもう一つの解釈としては、②「生命の木」に配置されている「セフィラ」そのものが裏の「意味」あるいは「役目」も兼ね備えているということです。というのは「日や月の神様からの愛や歓喜の光」は「上から下に向かって」霊体に流れ入ってきますが、「土の神様からの恵の光」は「下から上に向かって」霊体に流れ入ってきます。つまり「セフィラ」の配置は同じでも「天津神または国津神からのエネルギーの流れ」は真逆になります。つまり ①ケテル(Keter)は⑩マルクト(Malkuth) の役目を、⑩マルクト(Malkuth)は ①ケテル(Keter)の役目を兼務しなければなりません。ただしこの場合、⑤ゲブラー(Gevurah)だけは上から流れてくるエネルギーに対しても、下から流れてくるエネルギーに対しても同じは役目・意味合いを持つことになりす。これは①ケテル(Keter)に裏には⑩マルクト(Malkuth) が、⑩マルクト(Malkuth)の裏には ①ケテル(Keter)が隠れて存在しているのと同じことです。併せて「22」です。鳴門・富士の仕組みが完成したらなら、「身魂が成長するため」、「身魂を磨くため」には「天」から流れてくる神のエネルギーと、「お土」からいただく神のエネルギーの両方を頂かねばならいということを意味しているのかもしれません。「日月神示」では岩戸が開けたら「天」と「土」の境はなくなると記されています。よってカバラの概念(生命の木)を用いて「11」と「22」を説明するのであれば、②の方の解釈がよりしっくりくるように思います。しかしこれはあくまでも日月神示の富士・鳴門の仕組みを「カバラ」の概念を主に用いて説明しようとすれば、②の方が説明しやすいということであり、これが「11」と「22」の真の説明になっているとは限らないのです。なぜなら、少し前にも書きましたが、「カバラ」と「日月神示」の両方を互いに相補って(二本立てにして)初めて分かることだからです。
実は日月神示は、「真逆の意味や役目を果たすものが実は表裏一体である、あるいは切り離せない。」ことを教えているのです。その理由を一言で説明すれば、「大神様が呼吸をしている」からなのです。なので鳴門の仕組みで、神々様が「012345678910」を生み出せば、「109876543210」も必然的に生み出されてくるのです。鳴門の仕組みで「11」になれば、富士の仕組みが作用し何が何でも「22」になってしまうのです。これは「012345678910」は「012345678910」だけでは存在しえず、「109876543210」の存在が絶対に必要である、とも言い代えることもできます。「22」を説明するのにあえて「22のパス」を持ち出す必要はないのです(つまりカバラだけで説明する必要はないのです)。現代物理学ふうの言い回しで説明すれば、「物質」に対しては必ず相対する「反物質」が存在するように、鳴門の仕組みで生まれた「半霊半物質」なるのものに対しても、富士の仕組みで必ず「反半霊半物質」なるものが生まれてくることを意味しています。「012345678910」の世の生き方(またはミチ、身霊磨き)に対しても、必ず「109876543210」の世の生き方(またはミチ、身霊磨き)が存在することを教えているのです。鳴門の仕組みと富士の仕組みは2つで一つ(つまりセット)であり、二本(日本)立てなのです。神業も同じでどちらか一方だけをすればよいのではなく、両方必ずしなければならないのです。
「表裏一体」であるがゆえに、どちらかが「真」でどちらかが「偽」であるということもないのです。「表」からみた裏は「裏」であり、「裏」からみた裏は「表」なのです。このことを踏まえて以下の日月神示をお読み下さい。なんの前置きもなくこの帖だけを読んだ時とは異なった見方できると思います。富士の仕組みは「大神様が呼吸をしている」ことと深く関係していることがよく分かると思います。それゆえ「悪を抱きまいらす」意味もよく分かるかと思います。
地震の巻 第三帖
愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。 地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。 ・・・・・千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実が益々単にして益々充実し、円通する。されば、
の中の
の中なる
の
の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが、大歓喜そのものであって、神は、この
に弥栄し給えるが故に、最外部の
の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。始めなき始めの
の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの
の外の無にいまし、中間に位する力の
の中に生命し給うのである。一物の中の
なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。地獄は本来ないのである。また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。