「安心」は どこにある? | 自閉症、発達障がいのお子さんの気持ちがわかるキネシオロジー

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言葉が遅い、出てこない、話すのが苦手!でも、お子さんは伝えたい言葉をもっていて、それを伝えようとしています。その言葉を受信するには、まずはかかわる人が、素直に受けとめる準備をすること♪自分と仲良くなるセラピーを提供しています。

安心、という言葉には

あんまり
いいイメージがない。
 
それは
あまり素敵な意味で
使われてないからかも!と
今朝急に思いました。

今日はそのことについて
書いてみます。
 
「これがあれば安心」
「これさえあれば安心」
「これだけあれば安心」
「この人がいれば安心」
「安心な食べ物を」
「安心な世の中を」
「安心安全」
 
「安心」に関して
良く聞く言葉って

なんだか売り手が
消費者に対して
購入してほしいがための
売り文句みたいな
雰囲気もあって
なんかそれこそ
安っぽく聞こえる。

それに
 
安心は外側に
求めるものだよ。

いうようにも聞こえる。

安心安心と
言われれば言われるほど
上っ面だけのような。

そんな気もしちゃう。

そのくらい
外側に求めても
もろいんだよね。
ということなのかなと思う。

これはあくまで
わたしの想いだけどね(^◇^;)

じゃあ。

安心って何よ?
ってことなんですが

わたしは
自分の内側にあるもの。
自分で決めるもの。

なのかなーと
思います。

自分の内側に
「安心」があることに気づく

もしくは
自分の内側に
「安心」を作らなければ

いつも外側に
安心を追いかけることになる。

そうすると
永遠に満たされることは
ないわけね。

だからね

不安と不満が出たときは
外側に
求めすぎてないですか?

というサインだと思う。

基本的には
自分とさえ
つながってれば
 
なにかが無くても
誰かがいなくても
自分といれば安心。

なんだよね。

でもね

ここまで書いて思った。

私たちは
この世に生まれてきて
ひとりでは
大きくなれなかった。



母の存在
人の存在というのは
必要不可欠だった。

赤ちゃんの頃は
泣いたりして
外に求めないと
生き延びて
こられなかった。

ということは
安心を外に求めるのは
生き物として
あらかじめ
パッケージされて
いるものでもある。

でも実際

危害が加わらないように
ひとりで生きていけるように
守ってもらうのは
子どものときだけで
良いはずなのに

いつまでも
子どもの時のまま
外に求めるということを
し続けているから

安心安心と
必要以上に
外側に求めすぎて
しまうのかもしれない。

また
小さい頃に
母など
外側に求めても
安心が得られなかった
という体験を持っている人は

安心感が希薄な中で
育っている
可能性があるから

大人になってからも
外に求められなかったり
外に求めすぎてしまったり
するのかもしれない。

依存が起こるというのは
そういうことなのかも
しれないですね。

こうやって書いてみて
あらためて
わかることがある。

今日は夫の誕生日。

先日
母からへその緒をもらって
帰ってきました。

初めて開けてみたよ

生まれてきて
わたしと出会ってくれて
ありがとう爆笑

お誕生日おめでとう。