連載第4回
『その「声」は「誰」の声?』
執筆者 東町健太、オパーリン
・企画趣旨
とある大新聞に日がな寄せられる読者の「声」。その声は一体誰の声なのか?何を代弁しているのか?国民、労働者、女性、弱者、子供、はたまた単に「我々」という曖昧な共同体意識か?気になって読んでみれば、これまたびっくり、とんでもない・・・、いやいや思わず溜息がこぼれるほどのすばらしき投稿ばかり。
ということで我々オパーリン王国では東町健太氏を委員長にすえ、「『その「声」は「誰」の声?』委員会」を結成した。当委員会では毎月、これらの投稿の中から特に秀でた投稿について勝手に表彰し、講評を行うこととする。
・『その「声」は「誰」の声?』委員会 メンバー紹介
選考委員長 東町健太
選考副委員長 オパーリン
・2012年7月 結果発表
〈大賞〉
「子どもと大人の遊びなのに」
(テレビディレクター 女性 35歳)
日曜の夕方、家にパトカーがきた。理由はその4時間前にさかのぼる。天気の良かった昼間、チェコ人で普段はボランティアで子どもに絵画を教えている夫は、近所の男の子たちと港で海に飛び込む遊びをしていた。都会ではない子どもと大人がふれあう風景だ。
子どもたちが服を着たまま次々と海に飛び込む中、1人だけそうしない男の子がいた。一緒に遊ぼうと夫はその子の背中を押した。すると、「服がぬれたからお母さんに怒られる」と急に不安そうな表情になった。夫は「もし、お母さんに怒られたら、おじさんにやられたといいな。それでもだめなら一緒に謝ってやる」と言ったという。
夫が帰宅して二時間後、パトカーがきた。警察官は海でのことを聞きたいと言った。あの子の母親が「うちの子が海に落とされた」と通報したのだ。子どもと大人の遊びがいきなり警察に通報される時代なのだ。
〈講評〉
・東町健太(選考委員長)
ある日、自分の家の子どもがびしょぬれで帰宅した。驚いた母親は子どもに濡れている理由を問いただす。驚きのあまり、怒っているようにもとれる詰問調になってしまったかもしれない。子どもは先程教えられた通りに「おじさんにやられた」と答えた。わが子を海に突き落とすおじさんとは‥?
一体何の意図があって‥?恐ろしくなった母親は警察に相談する。
現代というのはこんなふざけた時代なのだ。筆者の夫、及び筆者の早急な逮捕が望まれる。
・オパーリン(選考副委員長)
あまりに秀逸な文章を前にして、今私はこの完成された作品に邪推な解説を差し挟むことに戸惑いを感じている。いや、突っ込みどころがないと言っているのではない。それは、ある。ありすぎて、どこから突っ込んでよいのか分からないのである。
それでも、何か書くことが私の役割であろうから、がんばってやってみよう。
まず、1人だけ海に飛び込まない男の子、その理由は「服がぬれたからお母さんに怒られる」からである。そして、その男の子は「不安そうな表情」までしているのである。そんな男の子に対して、筆者の夫は「もし、お母さんに怒られたら、おじさんにやられたといいな。それでもだめなら一緒に謝ってやる」と言い、本文には直接その描写は無いが、怯える男の子を海に突き落としたのである。
この文章から浮かび上がってくるのは、禍々しいまでの「善意」である。この夫には悪いことをしたという意識は微塵もない。もちろん筆者にもない。だからこそ、「いい事をしたのに何で通報されるんじゃ!おかしいやないか!」と逆切れしているのであるが・・・。
私はこの文章を読んで、この世で最も厄介で恐ろしいもの、それは「善意」であると思い知らされた。一転の曇りもない「善意」が暴走する時、「悲劇」が起こるのである。
そんな「善意」の持つ危険性を見事な筆致で暴きだし、警笛を鳴らした筆者に、心からの称賛を贈りたい。
〈佳作〉
「先生 子どもを守って下さい」
(主婦 女性 43歳)
大津市の市立中学2年生のいじめ自殺のニュースを聞いて激しい憤りを感じています。「自殺の練習をさせられ、亡くなった男子生徒」の周囲には、加害者、傍観者になった友人、そして無気力な先生方しかいなかったのでしょうか。
仮に、プロレス技などのふざけ合いを目撃した担任の先生に「いじめの認識はなかった」として、「自殺の練習」が10人以上の生徒の口から上っている状況を容認している先生や学校は、教育現場のあり方として異常ではないでしょうか。
いじめ自殺は間接的殺人だと思います。人間として自分が嫌なことを人にはしてはいけない、という最低限の道徳心の欠落が、人を死に追いやります。いじめはいじめられる側が弱いとか悪いのではなく、いじめる側に根本的な問題があることを、教育に携わっている先生は認識するべきです。
学校という安全な学びの場から、死を選ぶ子どもたちをもうこれ以上出してはいけません。先生方、どうか子どもたちを守ってください。救って下さい。
〈講評〉
・東町健太(選考委員長)
筆者の自殺問題に関する造詣の深さがうかがわれる文章である。 「人間として自分が嫌なことを人にしてはいけない」‥まさに名言である。つまり、「自分が嫌なことを人にする」人間などもはや人間ではないのである。そんな人間は人を死に追いやる殺人者なのである。この文章を読んだ教員の方々はきっと悟るだろう。このように「自分」という尺度だけを頼りにし自分の尺度でしか物事をみられないようになった人間が集団を作ったとき「いじめ」が生まれる、ということを。彼らは「自分」しか尺度がないから他人の気持ちなど全く顧みないし、「自分」の正しさを信じて疑わないわけですから。
この文章を読んだ先生方、「いじめる側の根本的な問題」をよく認識し、どうか子どもたちを守ってください。救って下さい。
・オパーリン(選考副委員長)
マスコミは連日、この事件に関して盛んに騒ぎ立てている。今やこの事件の加害者児童、その親、現場の教師、教育委員会、果ては市長まで、彼らはまごうことなき「全国民の敵」である。共通悪、絶対悪、としてレッテル張りされている。
「いじめは絶対にあってはならない」この文言は「絶対的な正義」である。だからこそ、みんなその「正義」に乗っかって、絶対悪であるいじめを許した者を罵倒する。勧善懲悪。この単純明快で絶対の図式は、1ミリたりとも狂ってはならない。ほんの少しのイレギュラーもあってはならない。だから、誰も、ほんの少しでも、加害者側を擁護するような言説があってはならない、絶対に。異論はあってはならない。
逆に、この勧善懲悪の図式に則ってさえいれば、何をやったって構わない。私は今この島中で、そんな雰囲気が醸成されている様に思う。
寄ってたかって悪者(と思われる、もしくは集団全体からそう認定された者)を攻撃する。これって「いじめ」ですよね?今、日本中のマスコミやその言説に乗っかって騒いでいるこの筆者の様な輩は、「いじめは絶対にダメ」とか言っておきながら、その実自分たちがやっていることが「いじめ」に他ならないことを自覚しているのだろうか?
以上が一連の事件と報道に関する私の見解である。いじめっ子の完璧なサンプルであったので佳作に推薦した。
〈佳作〉
「教え子との22年ぶりの再会」
(小学教員 男性 52歳)
「先生、必ずきてね」。以前勤務した学校の教え子からの電話に心が躍った。実に22年ぶりの再会だ。事前に卒業アルバムを見ておきたかったが、手元になく、全員の顔を思い出せない。
会場に入り、大きな歓声に狼狽する私。あいさつを求められ、高ぶる気持ちを抑え、「みんなと久しぶりに会えてうれしい」と話すのが精いっぱいだった。
談笑するうちに当時の面影がよみがえってきた。当時生まれた長女の名を覚えていてくれた子。「姉が会いたがっていました」と笑顔で話す子。「これで家族を支えています」。右手を差し出す男の子は食肉の処理加工に精を出している。
「しっかりと自分の道を歩んでいる君たちはすごい」。教師という職に携われた喜びを新たにした夜であった。
〈講評〉
・東町健太(選考委員長)
なんと微笑ましい文章であろうか。読んでいてとても心が温かくなった。文章の中には描かれていないが、いろいろな素敵な再会があったことは想像に難くない。当時生まれた長女のことなど全く記憶してなかった教え子もいただろう。私のようにまともな職に就けずに貧困にあえいでいる教え子もいただろう。「しっかりと自分の道を歩いている」とはとても言えないようなすごくない教え子もいただろう。家族に支えられ続けている教え子もいただろう。そういった教え子たちとの再会もきっと筆者は心から喜んだに違いない。
・オパーリン(選考副委員長)
読者の皆さんが今現在この解説を読んでいるということは、当然ながら既に作品には目を通し終えているということになる。どうだったであろうか。皆さんはピンときただろうか?ピンときたならば貴方は本誌の良き読者であり、本コーナーの良き理解者である。そういった方にはもはや本作の開設は無粋というものであろう。同志よ、これからも共に「面白くもなき世を、面白おかしく」やっていこう。
さて、ここからはピンとかなかった方の為に、本作品の解説をおこなっていく。なに、落ち込むことはありません。それはある意味で、このチッポケな島国に生きているという意味で、仕方の無いことではあるのですから。そう、日頃皆さんが触れるありとあらゆる情報によって「ピンとこない」ように仕向けられているのですから。これからも頑張って本誌を読み、「ピンとくる」ことのできるようになってください。
え、「ピンとくるとどんな得があるのか?」ですって?そんなもの、何の得もありやしませんよ。強いて言うならば、世間で日常生活を営むことが困難になり、やがて排斥、村八分になっておっ死ぬくらいですかね。全然得じゃありませんね、あはは。
でも、でもですよ。ちょっと考えてみてください。「ピンとこない」よりは「ピンとくる」方が、なんか気持ちよくありませんか?まあ、そんなもんですよ、好奇心なんて。世の為、人の為になることだけが好奇心、好奇心と褒めそやされる。そんな時流が気に食わないんですよ、僕は。
さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ解説に入りましょう。
本作品は一切の無駄のそぎ落とされた、完成された古典芸能的な作品です。能とか歌舞伎とかそんな感じです。その完成度たるや、人間国宝とかそんな感じの化石っぽい称号を与えたくなるほどです。まあ、僕にそんな権限はないのでここで佳作を授与しているわけであります。
本作を理解する上でのキーポイントは3つ、作者の職業〈小学校教員〉、本作品の掲載紙〈朝日新聞〉、文中の単語〈食肉の処理加工〉、です。この3つをさらに分かりやすく言い換えると、日教組、左派、部落差別問題、となります。そしてこの3つは互いに密接に関係してきたという歴史があります。
つまり、この作品は細かい内容とかは実際どうでもよくて(どうとでも変えられる)、重要なのは「小学校教員が朝日新聞に部落差別問題について書いた」という事実そのものなのです。このような文章を一般的に「プロパガンダ」と言います。
私はプロパガンダ自体を否定するつもりは毛頭ありません。これはこれで差別との戦い方の一つでありましょう。差別については本誌先月号に論評として書きましたが、私は私のやり方で向き合っていくまでです。それこそが「多様性」というものでありましょう。
しかし、まさにその「多様性」という一点についてのみ、私はこの作品というかこの三つ巴に一言申し上げないわけにはいかないのです。朝日新聞の「声」というコーナーは「読者(つまりは一般の人)の声を、無作為に抽出し、掲載することで世相を映し出す」という趣旨のものであると私は理解しています。
果たして、この抽出は本当に「無作為」でしょうか?自信を持って「公正中立」だと断言できるでしょうか。私は何も「作為的」で「有偏有党」であること自体を非難しているわけでないのです。それで何の問題もないと考えています。ただ気に食わないのは「作為的」で「有偏有党」であるならば、「作為的」で「有偏有党」である、と本当のことを言って欲しいだけなのです。「作為的」で「有偏有党」であるくせに、「無作為」で「公正中立」などと「真っ赤な」嘘を吐くことが、どうしても癪に障る。それだけなのです。
それにしても、模範的なプロパガンダでありましたので佳作に推薦しました。