さーて、またブログ更新しよ。
iPhoneからだから、あっさりと日記でも書きます。

今日は大学の同級生がつくばに帰ってきたので、そして「おかえり」部隊から飲みに誘ってもらったので参加。

ずっと喋ってたなぁ、俺。
僕が喋ると他の人が喋らなくなって、その後俺が話し終えるとシーンとなる感じがして、これはいかがなものかな~、
てなかんじの自意識過剰気味な今日この頃であります。

場を和ませ、皆の話を引き出すような「おしゃべり」、自分一人だけがダベりまくり、他の発言を封殺する「おしゃべり」。俺は、どう転んでも後者だな~、と自覚しているのさん。
でもまあ、しゃあないものな。僕はごく自然に話していると、自然と「えげつない」と他人に感んじられるようなそんな感じなしゃべり方になってしまう訳で、というかそもそも喋りたければ勝手に喋ればいいし、喋りたくなければ喋らなければいいし、それぐらいは自由の範疇であって欲しいし、そもそもそもそもそこに流れる空気とかは知ったことじゃないし、その空気に抗うことこそが我がライフワークでもあり、とまあよくわからない感じになっちまったな。
でもまあ、呼んでいただいているうちは大丈夫と判断することに勝手にいたします。
というわけで、俺は楽しかったよん。
また呼んでねドキドキ



iPhoneからの投稿
 就活を終えてから「もはや用無し」とばかりに新聞を解約していたのだが、今日から再び朝日新聞を取り始めた。とっていない間、主にテレビのニュース、ネット(2チャンネル)をソースとしていた訳だが、テレビのニュースがあまりにもしょうもないため、テレビの代替もしくは補強として再び購読することとした。
 さて、また朝日にした理由だが、勧誘員が来たのが朝日だけだったというのが実際のところだ。他紙との比較について少し意見を述べておくと(と言ってもじっくりと読み比べている訳ではなく、あくまで就職活動時に説明会や試験で感じた個人的な印象においてだが)、産経は別にタダで読めるから買う必要なし(しかも朝日とは対極だから比較すると面白い)。毎日は悪くないが一次面接で俺を落としたのでパス。読売は論外。東京新聞は実は一番インディーズ感が気に入っているのだが、勧誘員が来なかった。社会人になって金に余裕ができたら取ろうかな。
 とまあ、こんな感じだ。というわけで、今日の新聞記事で気になった記事と感想を書いていく。

―「2012年9月19日、オパ的ニュースレヴュー」―
・オピニオン面「耕論 愛国」
 この耕論のコーナーは3人位の識者があるテーマについてそれぞれの持論を述べるコーナー。今回のテーマは尖閣問題を多分に意識してだろう、「愛国」について。メンツは鈴木邦夫、亀井静香、岩井志麻子の3氏。
 このコーナー、社論とは違って、人選が面白く中々楽しめる。
 鈴木邦夫さんは極右(であった、といったほうがいいかな?)の老人。月刊「創」と関係が深く、僕も2回ほど生でお目にかかったことがある。真の愛国について語っていた。すごい文章が良かった。
 亀井静香さんは何を言っているのか意味が分からなかった。
 岩井志麻子さんは相変わらずキチガっていて笑えた。旦那が韓国人で飼い犬の名をを岩井さんは「竹島」と呼び、旦那は「独島」と呼んでいるそうだ。これまでネタにしてしまうとか、もはや神。

・国際面「英王子夫妻写真再掲載差し止め」
 なんか、イギリスのウィリアム王子の嫁、キャサリン妃のトップレス写真をフランスの芸能誌「クローザ―」が掲載して、パリの地裁がその再掲載の差し止めを命令したらしい。
 今日一番面白かった記事だな。AFP通信が伝えたって書いてあった。王子の嫁がヌード撮ってたってことがさすがイギリスって感じだよね、日本で言ったら雅子さまのヌードを韓国あたりのゴシップ雑誌にスッパ抜かれたってことだからな、すごいよな、キャサリンもクローザ―も。日本のフライデーじゃちょっと真似できないだろうな。
洋ピンにはあまり興味ないけど、一回見てみたくはあるな。

・文化面「尖閣・竹島 なぜ熱くなる」
この記事自体は別にどうでもよかったんだけど、記事の執筆者の近藤康太郎さん、これが目にとまった。実はこの人の本を一冊読んだことがあって、これが結構面白かったんだよね。まだクビにならずに記者を続けているんだ、とホッコリしたのでピックアップしときました。
 月オパの読了リストに書いたことがあったので、再録しておきます。

・近藤康太郎
『朝日新聞記者が書いた「アメリカ人が知らないアメリカ」』
作者は典型的なアングラ好き人間であった。そういう人が朝日新聞の記者として働けているという点が興味深かった。内容も、「お利口ではない人間の視点」から見たアメリカについて書かれていて、得るものは大きかった。彼の様な「アウトサイダーとの境界線ギリギリにいるインサイダー」みたいな人がいる組織というのは豊かだし、どの組織にも彼みたいな人が少しはいないと駄目なんだろうと思う。
(出典 「月刊オパーリン王国2011年11月号」の「読了リスト、感想文」より)

はい、皆さんこんばんは。
前回は非常にひどいこと極まりない記事を更新してしまいました。
さて、本日公開する記事は連載小説『生き恥を、晒して足掻く、私かな』の第6回です。
まあ、こっちもひどいっちゃひどいんだけどもね。
えーと、一応今回で第一章が終了です。
次回から第二章に入ります。
では、以下本文です、お楽しみくだされ。

あ、一応今までの分を未読の方は『月オパ』の各号に掲載されているので、
こちらからどうぞ

↓前回までの分
http://p.booklog.jp/users/opaarinn

――以下本文――

連載小説第6回
『生き恥を、晒して足掻く、私かな』
執筆者 オパーリン

11、「リアリティ、それはきっと嘘。そして一縷の望み。」

 えー、っとですね。この得体の知れない文章、これを書き継いでいる間にも、無情にも月日は流れるわけで。これを書き始めてからもう、かれこれ半年以上も経ってしまっている。それでね、これを書き始めた当初、僕はその文中に「僕は新聞記者になろうと思う」というような事を書いていたと思う。結果としてですね、この半年の間に「僕が新聞記者になることはない」ということが決定したのですよ。でね、長きに渡った就職活動も昨日、何とか終わることになった。いやあ、中々決まらなかった。実際のところ、この就職活動を通してはっきりと分かったのは、「僕は社会に向いていない」というしょーもない、そして厳然たる事実だったな。
 まあ、そんな風にしてね、この「物語」と「現実」はリンクしているのです。こんな風に直接的にではなくても、現実に所属する僕がその所属元である現実で経験し、感受したことは、僕の書く物語に反映される。そして、ひとしきり物語を書いた僕は、再び現実に引き戻されて、自分が書いた物語を現実に反映させようとしてもがく。そうやって現実と物語は関係しているのですよ。
 そう、この章の議題は随分前にお約束した通り「リアリティー」についてです。本当はね、この章をすっ飛ばして、早くこの文章のメインディッシュである次の章に行きたかったんだけれどもね。それはそれで、まあ、ありかな、とも思ったんだけれどもね。結局書くことにした。理由は無い。
 じゃあ、早速始めるよ。そしてあんまり長引かせるつもりはない。ホントにいい加減、俺が喋くってばかりだと、ダレルからね。
 この文章でも度々、僕は小説を書いていて、その最中にいつも「自分の書いている文章はただ事実を羅列しただけの日記なのではないか」と気になっていたと書いている。かといって、自分とまったく関係のない物語を作ってみても、どうにもしっくりこない、とも書いた。で、なんでしっくりこないのかと考えてみると、それはどうも「なんだか嘘をついているような気分になるから」なのだろうと思う。
 この一連の果てることなき禅問答において、やはりキーポイントとなってくるのは「物語におけるリアリティーとは何なんだ」という問いなのだろうと思う。
そもそも、小説というものに現実との関係性を一切求めない人にとっては、この問いは意味を成さないだろうと思う。「リアリティー?そんなもんいらん」これで終わりだ。僕がこの問いに囚われ続けているということは、そのことだけで僕が物語にリアリティーを求めていて、それは物語と現実との間に何らかの関係を求めている、ということに他ならない。
 現実と物語の関係性、というようにテーマを絞り、「リアリティー」という曖昧な言葉を解体してみた。しかし、物語と現実は一体どんな風に関係しているのだろうか、そして、どのように関係することを僕は望んでいるのだろうか。その点について考えていく。
 例えば、「事実をそのまま書く」という体裁の「ノンフィクション」という分類がある。僕がこれまで日記、日記と自作を揶揄してきたのも基本的にはこれを指している。この場合、現実と書かれた文章が一致すること、同義であることが望ましく、それを望んでいる、ということになる。
 僕が初めて小説を書いた時(『働きアリは何を思う』)、それはほとんど日記であると自分で判断した通り、書かれている内容と事実はほとんど同じであった。しかし、まったく同じ、まったく現実そのもの、ではなかった。それは「自分の経験した過去の出来事について言及、描写した文章」ではあったけれども決して「事実、あるいは現実」ではなかった。まあ、何度も書いていることなんだけれども、「僕」というフィルターを通して変換している以上、それは事実たりえないのだ。
よく新聞が使う「客観的な報道」という言葉があるが、それは原理的にあり得ないのだ、というスタンスを僕はとっている。その理由は、森達也さんの『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』を読んでいただければ分かると思う。そのまんま納得したので。だから、仮にノンフィクションを希求したとしても、人間が書いた文章というものは原理的に嘘である、あるいは嘘が含まれているのである。
そして、僕が自分の書く文章にノンフィクション、客観性、を希求しているのか、と考えてみると、そうではないと思う。じゃあ、文章に何を求めているのか、一体どんな関係性を望んでいるのか。
「物語を読んで、あるいは書くことで、自分を取り巻く現実を変えたい。」そう言うと言い過ぎというか、なんか気恥ずかしい気分になるんだけれども、極論を言えばそんなような願望が、一縷(いちる)の望みが僕の中にあることは隠しきれない事実だろうと思う。
だからそう、きっと、僕は自分が今いる現実から始まって、現実を追い越して、先行して行くような、そんな物語を書きたいんだと思う。
さて、暫定的ではあるが、そしてそれで一向に構わないが、答えは出た。先行し、飛躍し、現実世界を変革する物語、これが僕のいう「リアリティー」であることが分かったわけだ。
で、問題となってくるのは今僕が書いているこの文章である。タラタラと半年も書き続けてきたわけだが、未だに「過去」を振り返っているにすぎない。今のところ、ジイさんのノスタールジャと何ら変わりは無い。オナニーむき出しである。自覚している。まあ、オナニーであることは認めるし、それで一向に構わない事も再三に渡って書いてきたが、それとは別に、この文章、自分としてはかなり順調に進んでいるつもりである。
今さっき僕は「自分が今いる現実から始まって、現実を追い越して、先行して、現実世界を変革していく物語を書きたいんだ」と言った。その点において、順調なのである。「自分が今いる現実から始まる」ということは現実を活写し尽くすということである。現実に過去はつきものである。というよりも、全ての過去が現実なのだろう。で、「現在」は「更新され続ける最新の過去」なのだ。だから、順調に僕の過去を遡っているこの文章は順調なのである。
そう、いよいよ追いつくのである、現実に。この文章はここまでに、僕が今までに書いてきた小説について書いてきたが、10章までで全部言及し終えた。次章以降、この文章が書かれている、そして今あなたがこれを読んでいる媒体である『月刊オパーリン王国』について、その創刊に至る経緯についての言及が始まる。つまるところ、本番、山場、である。
期待してくれて構わない。

「中出し論と企画案」
執筆者 オパーリン

・はじめに
 ついこないだまで出版社の就職試験を受けていて、「編集者は企画が命」みたいな説明を再三聞かされたが、アダルトビデオにしてもそれは同じことであろうと察せられる。この文章では日頃のAV鑑賞から考えたことや、ふと思いついたAVの企画案とか、ダルダルと書いていこうと思う。僕はAVに詳しいが、読者の皆さんはそれ程でもないだろうから、適度に解説を加えながら書いていこうと思う。少しでも「AVって面白いんだな」、「AVってただのオナニーの道具じゃないんだな」など、AVに興味を持つきっかけになってくれれば、これに勝る喜びはない。

・業界動向(トレンド)を読むという楽しみ方
 僕は日頃からAVをよく観る。最近の人はネットで無料動画を観て済ませてしまう人が多いようだが、僕は断然DVDで観る方が好きだ。確かにただ絡みだけが映っているネット動画はお手軽であるはが、やはり、DVDとしてパッケージ化されることによって、そこに「作品性」というものが生じると思うのである。そして、僕は一本一本のAVの作品性を楽しむのが好きなのである。
 本来ならば、DVDショップに行って買うことで製作者に敬意を払いたいと思うのであるが、何分金がなく、やむおえずレンタルショップに行って借りてくるのが常である。
 で、僕はレンタルショップに行くと、随分と長い時間をかけて(小一時間、時には数時間に及ぶこともある)棚を眺める。棚は作品の集合である。そして、定期的にレンタルショップに通っているとあることに気付く。一見乱雑、好き放題に作られているように見えるAVであるが、そこには確かに「トレンド」や「傾向」と言えるものがあるのである。
例えば、最近は熟女モノがとても多いとか、一時期非常に流行っていたマシンバイブ系が最近ではすっかりなりを潜めている、過激路線としてスタートした二穴、三穴同時挿入(晶エリーちゃんの十八番である)が今やスタンダードとなりつつあると言って好い程に普及拡散している、とか挙げればきりがない。

・中出し論 ‐ジャンルの細分化について‐
 また、AVの「ジャンル」がかなりきっちりと細分化されている事も特筆すべきことであろうか。業界全体として、もはや蛸壺化というくらいに細かくなり、多様なフェチズムへのマッチングを図るという戦略をとっていることが分かる。
 と、大雑把な話をしても、この様に高度に多様化しているAV業界の全体を把握していることにはならないだろうと思う。概論だけを話していても掴み損ねてしまう、そんな状況にあると思う。
 なので、一つケーススタディというか、細分化の具体例を紹介しよう。最近、中出しモノで面白いAVを観たのでそれを紹介しようと思う。
中出しモノは僕の知る限りではかなり古いジャンルである。まあ、中出しそれだけを売りにする例は比較的少なく、なのでジャンルというよりは作品を分類する上での一要素と言ったところであろうか。
 説明するまでもなく、男優が女優の膣内で射精すれば中出しモノに分類される。しかし、当然ながらこの中出しは女優の身体的なリスクが大きい。性病や妊娠の危険性が伴うのである。性病は職業病的側面もあり、検査を徹底するしかない。妊娠は、まあ、妊婦モノというジャンルも存在するが、そうしょっちゅう妊娠するのも嫌だろうしね。
 そこで、中出しモノに出演する女優はこの妊娠リスクを回避する必要がある。その回避方法は前もってピルを服用して撮影に臨む、撮影後にアフターピルを飲む、などであろうと察せられる。
 しかし、実はもう一つ回避方法がある。「疑似中出し」という撮影手法である。現場を知っている訳ではないので確かなことは言えないが、ローションに片栗粉等を混ぜて着色するなどして人工精子を作るみたいだ。
 しかし、客は「中出し」を観たいのであって「疑似中出し」を観たいわけではない。そこで、その要望に応える製作者が出てくる。つまり、その中出しが疑似ではないことを売りの一つにする(具体的には「疑似なし」等とパッケージに記載される)作品が作られるのである。リアリティーの追求であり、真正の中出しであることを証明する為に、中出しシーンをノーカットで映すなどの対策が取られる。
 背景の説明が長くなったが、今回紹介するのはその真正中出しを証明する手段がユニークであった作品である。残念ながらタイトルを忘れてしまったのだが、彼らはノーカット撮影に加えて、一回外出しし、その射精中にもう一度挿入して中出しするという手法を発明したのである。
徹底したリアリティーの追求という点においてその姿勢には敬服する。そして、その画がまた何とも言えず滑稽で、面白いのである。
 まとめると、中出しモノの中にもう一つ細かな分類として「真正中出しの証明」という要素が発生しているのである。そして、このジャンルの細分化が「疑似中出し」といういわば「業界の実情」を「前提知識」として発展しているところが興味深い。

・企画案
 最近、ふとAVの企画を思いついて、それが中々気に入っているので紹介しよう。
 パロディー系のAVはかなり昔から根強い人気ジャンルとして存在している。そして、その変遷を追っていくとそのAVが作られた時代を反映していて面白い。僕の知る範囲では古くはミニモニとか、最近では専らAKBのパロディーなど、色々とある。ハルヒとかアニメ系のパロディー(コスプレ)も最近では人気のあるサブジャンルとして定着している。
 で、僕が思いついたのはだね、夜中に珍しくテレビで歌番組を観ていて思いついたんだけど、お尻をプリプリ、プルプルと高速で振っているアイドルがいるじゃん。あ、調べたら「SUPER☆GiRLS」って言うんだって。あれって、格好のAVネタだろ、安易に☆を使っちゃってるあたり特にさ、と思った訳ですよ。
 で、ただヤルだけじゃつまんないから、もうひと工夫入れないとね。そう、浣腸してみよう、と思った訳ですよ。浣腸されて脱糞を我慢しながらのあの高速ケツ振りダンス、最強の拷問じゃない?アイドルパロ好き、嗜虐プレイ好き、共にたまんないだろうな。パロディー系と浣腸モノの見事な融合、歴史に残る名作になると思うんだけどな。僕自身観てみたいから、旬なうちに誰か作ってくれないかな、と期待しております。

連載第4回
『その「声」は「誰」の声?』
執筆者 東町健太、オパーリン

・企画趣旨
 とある大新聞に日がな寄せられる読者の「声」。その声は一体誰の声なのか?何を代弁しているのか?国民、労働者、女性、弱者、子供、はたまた単に「我々」という曖昧な共同体意識か?気になって読んでみれば、これまたびっくり、とんでもない・・・、いやいや思わず溜息がこぼれるほどのすばらしき投稿ばかり。
 ということで我々オパーリン王国では東町健太氏を委員長にすえ、「『その「声」は「誰」の声?』委員会」を結成した。当委員会では毎月、これらの投稿の中から特に秀でた投稿について勝手に表彰し、講評を行うこととする。


・『その「声」は「誰」の声?』委員会 メンバー紹介
 選考委員長 東町健太
 選考副委員長 オパーリン


・2012年7月 結果発表
〈大賞〉  
「子どもと大人の遊びなのに」
(テレビディレクター 女性 35歳)

 日曜の夕方、家にパトカーがきた。理由はその4時間前にさかのぼる。天気の良かった昼間、チェコ人で普段はボランティアで子どもに絵画を教えている夫は、近所の男の子たちと港で海に飛び込む遊びをしていた。都会ではない子どもと大人がふれあう風景だ。
 子どもたちが服を着たまま次々と海に飛び込む中、1人だけそうしない男の子がいた。一緒に遊ぼうと夫はその子の背中を押した。すると、「服がぬれたからお母さんに怒られる」と急に不安そうな表情になった。夫は「もし、お母さんに怒られたら、おじさんにやられたといいな。それでもだめなら一緒に謝ってやる」と言ったという。
 夫が帰宅して二時間後、パトカーがきた。警察官は海でのことを聞きたいと言った。あの子の母親が「うちの子が海に落とされた」と通報したのだ。子どもと大人の遊びがいきなり警察に通報される時代なのだ。


〈講評〉
・東町健太(選考委員長)
 ある日、自分の家の子どもがびしょぬれで帰宅した。驚いた母親は子どもに濡れている理由を問いただす。驚きのあまり、怒っているようにもとれる詰問調になってしまったかもしれない。子どもは先程教えられた通りに「おじさんにやられた」と答えた。わが子を海に突き落とすおじさんとは‥?
 一体何の意図があって‥?恐ろしくなった母親は警察に相談する。
現代というのはこんなふざけた時代なのだ。筆者の夫、及び筆者の早急な逮捕が望まれる。


・オパーリン(選考副委員長)
 あまりに秀逸な文章を前にして、今私はこの完成された作品に邪推な解説を差し挟むことに戸惑いを感じている。いや、突っ込みどころがないと言っているのではない。それは、ある。ありすぎて、どこから突っ込んでよいのか分からないのである。
 それでも、何か書くことが私の役割であろうから、がんばってやってみよう。
 まず、1人だけ海に飛び込まない男の子、その理由は「服がぬれたからお母さんに怒られる」からである。そして、その男の子は「不安そうな表情」までしているのである。そんな男の子に対して、筆者の夫は「もし、お母さんに怒られたら、おじさんにやられたといいな。それでもだめなら一緒に謝ってやる」と言い、本文には直接その描写は無いが、怯える男の子を海に突き落としたのである。
 この文章から浮かび上がってくるのは、禍々しいまでの「善意」である。この夫には悪いことをしたという意識は微塵もない。もちろん筆者にもない。だからこそ、「いい事をしたのに何で通報されるんじゃ!おかしいやないか!」と逆切れしているのであるが・・・。
 私はこの文章を読んで、この世で最も厄介で恐ろしいもの、それは「善意」であると思い知らされた。一転の曇りもない「善意」が暴走する時、「悲劇」が起こるのである。
 そんな「善意」の持つ危険性を見事な筆致で暴きだし、警笛を鳴らした筆者に、心からの称賛を贈りたい。


〈佳作〉 
「先生 子どもを守って下さい」
(主婦 女性 43歳)


 大津市の市立中学2年生のいじめ自殺のニュースを聞いて激しい憤りを感じています。「自殺の練習をさせられ、亡くなった男子生徒」の周囲には、加害者、傍観者になった友人、そして無気力な先生方しかいなかったのでしょうか。
 仮に、プロレス技などのふざけ合いを目撃した担任の先生に「いじめの認識はなかった」として、「自殺の練習」が10人以上の生徒の口から上っている状況を容認している先生や学校は、教育現場のあり方として異常ではないでしょうか。
 いじめ自殺は間接的殺人だと思います。人間として自分が嫌なことを人にはしてはいけない、という最低限の道徳心の欠落が、人を死に追いやります。いじめはいじめられる側が弱いとか悪いのではなく、いじめる側に根本的な問題があることを、教育に携わっている先生は認識するべきです。
 学校という安全な学びの場から、死を選ぶ子どもたちをもうこれ以上出してはいけません。先生方、どうか子どもたちを守ってください。救って下さい。


〈講評〉
・東町健太(選考委員長)
 筆者の自殺問題に関する造詣の深さがうかがわれる文章である。 「人間として自分が嫌なことを人にしてはいけない」‥まさに名言である。つまり、「自分が嫌なことを人にする」人間などもはや人間ではないのである。そんな人間は人を死に追いやる殺人者なのである。この文章を読んだ教員の方々はきっと悟るだろう。このように「自分」という尺度だけを頼りにし自分の尺度でしか物事をみられないようになった人間が集団を作ったとき「いじめ」が生まれる、ということを。彼らは「自分」しか尺度がないから他人の気持ちなど全く顧みないし、「自分」の正しさを信じて疑わないわけですから。
 この文章を読んだ先生方、「いじめる側の根本的な問題」をよく認識し、どうか子どもたちを守ってください。救って下さい。


・オパーリン(選考副委員長)
 マスコミは連日、この事件に関して盛んに騒ぎ立てている。今やこの事件の加害者児童、その親、現場の教師、教育委員会、果ては市長まで、彼らはまごうことなき「全国民の敵」である。共通悪、絶対悪、としてレッテル張りされている。
 「いじめは絶対にあってはならない」この文言は「絶対的な正義」である。だからこそ、みんなその「正義」に乗っかって、絶対悪であるいじめを許した者を罵倒する。勧善懲悪。この単純明快で絶対の図式は、1ミリたりとも狂ってはならない。ほんの少しのイレギュラーもあってはならない。だから、誰も、ほんの少しでも、加害者側を擁護するような言説があってはならない、絶対に。異論はあってはならない。
 逆に、この勧善懲悪の図式に則ってさえいれば、何をやったって構わない。私は今この島中で、そんな雰囲気が醸成されている様に思う。
 寄ってたかって悪者(と思われる、もしくは集団全体からそう認定された者)を攻撃する。これって「いじめ」ですよね?今、日本中のマスコミやその言説に乗っかって騒いでいるこの筆者の様な輩は、「いじめは絶対にダメ」とか言っておきながら、その実自分たちがやっていることが「いじめ」に他ならないことを自覚しているのだろうか?
 以上が一連の事件と報道に関する私の見解である。いじめっ子の完璧なサンプルであったので佳作に推薦した。


〈佳作〉
「教え子との22年ぶりの再会」
(小学教員 男性 52歳)


 「先生、必ずきてね」。以前勤務した学校の教え子からの電話に心が躍った。実に22年ぶりの再会だ。事前に卒業アルバムを見ておきたかったが、手元になく、全員の顔を思い出せない。
 会場に入り、大きな歓声に狼狽する私。あいさつを求められ、高ぶる気持ちを抑え、「みんなと久しぶりに会えてうれしい」と話すのが精いっぱいだった。
 談笑するうちに当時の面影がよみがえってきた。当時生まれた長女の名を覚えていてくれた子。「姉が会いたがっていました」と笑顔で話す子。「これで家族を支えています」。右手を差し出す男の子は食肉の処理加工に精を出している。
 「しっかりと自分の道を歩んでいる君たちはすごい」。教師という職に携われた喜びを新たにした夜であった。


〈講評〉
・東町健太(選考委員長)
 なんと微笑ましい文章であろうか。読んでいてとても心が温かくなった。文章の中には描かれていないが、いろいろな素敵な再会があったことは想像に難くない。当時生まれた長女のことなど全く記憶してなかった教え子もいただろう。私のようにまともな職に就けずに貧困にあえいでいる教え子もいただろう。「しっかりと自分の道を歩いている」とはとても言えないようなすごくない教え子もいただろう。家族に支えられ続けている教え子もいただろう。そういった教え子たちとの再会もきっと筆者は心から喜んだに違いない。


・オパーリン(選考副委員長)
 読者の皆さんが今現在この解説を読んでいるということは、当然ながら既に作品には目を通し終えているということになる。どうだったであろうか。皆さんはピンときただろうか?ピンときたならば貴方は本誌の良き読者であり、本コーナーの良き理解者である。そういった方にはもはや本作の開設は無粋というものであろう。同志よ、これからも共に「面白くもなき世を、面白おかしく」やっていこう。
 さて、ここからはピンとかなかった方の為に、本作品の解説をおこなっていく。なに、落ち込むことはありません。それはある意味で、このチッポケな島国に生きているという意味で、仕方の無いことではあるのですから。そう、日頃皆さんが触れるありとあらゆる情報によって「ピンとこない」ように仕向けられているのですから。これからも頑張って本誌を読み、「ピンとくる」ことのできるようになってください。
 え、「ピンとくるとどんな得があるのか?」ですって?そんなもの、何の得もありやしませんよ。強いて言うならば、世間で日常生活を営むことが困難になり、やがて排斥、村八分になっておっ死ぬくらいですかね。全然得じゃありませんね、あはは。
でも、でもですよ。ちょっと考えてみてください。「ピンとこない」よりは「ピンとくる」方が、なんか気持ちよくありませんか?まあ、そんなもんですよ、好奇心なんて。世の為、人の為になることだけが好奇心、好奇心と褒めそやされる。そんな時流が気に食わないんですよ、僕は。
さて、前置きが長くなりましたが、いよいよ解説に入りましょう。
 本作品は一切の無駄のそぎ落とされた、完成された古典芸能的な作品です。能とか歌舞伎とかそんな感じです。その完成度たるや、人間国宝とかそんな感じの化石っぽい称号を与えたくなるほどです。まあ、僕にそんな権限はないのでここで佳作を授与しているわけであります。
本作を理解する上でのキーポイントは3つ、作者の職業〈小学校教員〉、本作品の掲載紙〈朝日新聞〉、文中の単語〈食肉の処理加工〉、です。この3つをさらに分かりやすく言い換えると、日教組、左派、部落差別問題、となります。そしてこの3つは互いに密接に関係してきたという歴史があります。
 つまり、この作品は細かい内容とかは実際どうでもよくて(どうとでも変えられる)、重要なのは「小学校教員が朝日新聞に部落差別問題について書いた」という事実そのものなのです。このような文章を一般的に「プロパガンダ」と言います。
 私はプロパガンダ自体を否定するつもりは毛頭ありません。これはこれで差別との戦い方の一つでありましょう。差別については本誌先月号に論評として書きましたが、私は私のやり方で向き合っていくまでです。それこそが「多様性」というものでありましょう。
 しかし、まさにその「多様性」という一点についてのみ、私はこの作品というかこの三つ巴に一言申し上げないわけにはいかないのです。朝日新聞の「声」というコーナーは「読者(つまりは一般の人)の声を、無作為に抽出し、掲載することで世相を映し出す」という趣旨のものであると私は理解しています。
 果たして、この抽出は本当に「無作為」でしょうか?自信を持って「公正中立」だと断言できるでしょうか。私は何も「作為的」で「有偏有党」であること自体を非難しているわけでないのです。それで何の問題もないと考えています。ただ気に食わないのは「作為的」で「有偏有党」であるならば、「作為的」で「有偏有党」である、と本当のことを言って欲しいだけなのです。「作為的」で「有偏有党」であるくせに、「無作為」で「公正中立」などと「真っ赤な」嘘を吐くことが、どうしても癪に障る。それだけなのです。
 それにしても、模範的なプロパガンダでありましたので佳作に推薦しました。