2005年で西武ライブは終わってしまったが、その翌年からは「美里祭り」と題して、毎年場所を変えてライブが行われることになった。第1回目は「「美里祭り2006 in 山中湖 〜初富士・美里・夏が来た!〜」。美里ファンが一斉に山中湖へ行くわけだから、ペンションを予約するのが大変だった。しかし、新幹線とバスを乗り継ぎ、さらにタクシーに乗ってペンションに到着したら、お客さんは当然ながら全員美里ファンな訳で、共通の目的を持っているだけに、食事で相席になったりしても違和感はなく、むしろ家族的な雰囲気が漂っていた。ライブは最高で、「はじめて」、「初恋」、「ランナー」、「青空」といった、なかなか聴くことができない名曲が揃えられており、さらに曇り空だったにも関わらずわずかながら富士山も見え、とても素敵な夜を過ごしたのだった。
そしてその翌月、私はまたヨーロッパへの旅に出た。ショパンの作品の資料収集のためである。今では考えられないことなのだが、当時は資料を収集するために大学の図書館から依頼してもその返事がなかなか来ない、ということがよくあったのだ。パリのフランス国立図書館も、最初のコンタクトに対して返信はくれても、そのあと資料を請求してもなかなかその返信がなかったり、ようやく到着しても数ヶ月待たされる、という感じなのだった。ワルシャワのショパン協会(TiFC)は、待てども待てども返事さえ来なかった。イライラと待っていたのだが、待ちきれず、直接資料収集に行ってみようと思ったのである。2005年のショパン・コンクールに行っていなければそんな行動力はなかったに違いない。しかし、行ってみればいろんなことがなんとかなるものだ、ということを実感した経験を持った私は、資料を収集して歩く、ということを経験したくなったのだ。そして、ショパン・コンクールで知り合ったエヴァやドイツ人のOさんともメールのやり取りが続いていたので、彼らと再会することも予定に含めた。
最初にパリに行った。その前にドイツ人のOさんからパリに住む日本人のTさんを紹介してもらい、パリの楽譜屋さんや古書店などの情報をもらっており、お会いする約束を取り付けていた。まずは楽譜屋さんに行ったのだが、絶版となっていてどうしても入手することができなかったショパンの弟子ジェーン・スターリングの楽譜のファクシミリが新古書のような感じで売られているのを見つけ、早速購入した。幸先がよいではないか。もちろん、パリではショパンの作品の場合、どのエディションが主に売れているのか、のインタビューも忘れない。続いて、何度メールを送っても返信がなかったポーランド図書館に行くと、メールが届いていなかったことが判明した。私は自分が送ったメールを持参していたので、先方は思ったよりも迅速に対応してくれ、ショパンの弟子ザレスカ=ローゼンガルトの楽譜の原本を調査させてくださった。ショパン作品の初版をはじめて手に取った瞬間であった。さらに所蔵のショパン・コレクションを案内してくれた。2日間かけて調査し、その夜にTさんと食事をした。ワルシャワのショパン協会とどうしても連絡がつかなくて困っていると伝えると、Tさんはその場で当時ショパン大学の学生だったAさんに電話してくださったのであった。思わぬ展開に驚いていたのだが、このTさんの電話が状況を大きく変えてくれたのだった。
ワルシャワに行く前にドイツのハンブルクに寄り、Oさんと再会した。何泊かOさんのご自宅に泊まられてもらい、ハンブルクの楽譜屋さんや図書館にも行った。その間にワルシャワのAさんと何度かメールのやりとりがあり、ショパン協会に行くにあたって必要な書類や到着までに再度手紙を送っておくこと、などの指示をもらって、とにかく言われた通りに手紙やメールを送った。そういう意味では、パリからワルシャワの間にハンブルクを挟んだのは、とてもよい選択だったのだ。
そしていよいよワルシャワへ。ショパン大学でAさんと待ち合わせると、いきなり「今から先生の面接を受けてください」と言われる。英語で面接を受ける、などということを想定していなかったので、一瞬にして顔面が蒼白したのが自分でもわかった。本番で緊張している時のあの感じ。しかも面接の相手はショパン協会の会長、カジミエシュ・ギョルジョード教授なのであった。廊下を歩くわずか数十秒で必死に言葉を考えていた。そして研究室に入り、挨拶を済ませると、とにかく思いつく限りの言葉で、どういった研究をしたいのか、そのためにどの資料が必要なのか、を伝えた。その間、先生の目は私の目から一度も離されることはなく、私の英語はほとんど通じていなかったのだろうが、真面目さだけは伝わったのだろうと思う。資料室への入室を許可された。
ショパン協会の資料室に入ると、写真コピーの資料はすべて自由に見させてもらえ、写真撮影はすべて無料、制限なし、という好待遇であった。OさんがTさんを紹介してくれ、パリでTさんがAさんに電話してくれ、なおかつAさんの先生がショパン協会の会長だったことで予定以上に資料収集がスムーズに進む、というとんでもないミラクルを味わったのだった。人と人の繋がりというのは本当に不思議だと思う。彼らに感謝してもしきれない。今思えば、ショパン協会(TiFC)からショパン研究所(NIFC)への移行期間であり、いろんな意味で難しい時期だったのだ。その後、ポーランド国立図書館でも調査をスムーズに行うことが出来、すべての資料収集を無事に終えた。
旅の最後はグダンスクである。ショパン・コンクールで毎日となりの席に座っていたエヴァと再会した。エヴァの案内でグダンスク中を周った。その美しい街並みは夕暮れ時になるとより一層、静かに輝く。グダンスクでは2泊したのだが、エヴァは最後の最後まで見送ってくれた。その後も彼女とのメールは続いたのだが、ある年から急に連絡が取れなくなってしまった。電話をかけて見ても、電話番号そのものが無効になっている。2010年のショパン・コンクールでも探したが、見つからなかった。彼女は1955年から欠かさずショパン・コンクールに行っている、と言っていたので、おそらく亡くなってしまったのかも知れない。エヴァと過ごしたわずかな時間は、今でも私の胸に深く残っている。
帰宅後、この年の11月に、はじめて私が書いた論文が、研究ノートして掲載された。日本ピアノ教育連盟紀要第22号「アルフレッド・コルトー版に見られる指使いに関する一考察~ショパン作品の場合~」である。
