救急醫師を大事にしなかった、とある總合病院 | 日本國人

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令和元年・紀元2679年10月1日開始。

 これは、とある病院の話である。その病院は、都會にある総合病院だ。一應、歴史ある、それなりに名の通った病院でもある。元々は公的な病院であったが、ボンクラ政治屋により、民營化されてしまったものだ。そういった病院であるが、経営改善の掛け声だけは勇ましく、救急医療を拡充しよう!、救急車を断るな!、と、病院幹部は大張り切り(のフリ?)であり、救急医療専門部門も新設した。しかし、當の救急医師は、というと、兼務の常勤醫長が一名のみ。

 その救急醫長先生は、本當によくやっていた。研修醫時代からその病院で勤務し續けている先生で、救急診療以外にも、職員に對するAED等の講習やら、地元救急隊との會合やら、文字通り八面六臂の大活躍であった。しかし、やはり、いくら優秀な先生とはいえ、総合病院の救急を、たった一人にてまわすのは、どうしても無理がでてくる。

 そこに、待望の、新しく若い救急の先生がやって來たのだ。その先生も、お若いながら、優秀で、評判も良く、病院の救急診療力も一氣に上がった。めでたしめでたし・・といくはずなのだが。そうはいかなかった。病院の、救急部門に對する、特に新しく來た先生への對應が、あまりに非道過ぎたのだ。

 その病院には、各診療科毎に、医局が存在した。外科医局、内科医局、皮膚科医局・・といった具合に。直接診療以外の時間には、普通、醫師はそこに詰めており、雑務等を行うのだ。新しく救急部門ができ、常勤醫師が二名居るようになったのだから、當然、救急部門の醫局もつくって然るべき、なのである。

 ところが、そうはならなかった。病院は、救急の醫局をつくらなかったどころか、新しく來た先生の居場所、すなわちロッカーや居場所すら用意しなかったようなのだ。そこで、若いほうの先生は、仕方なく、救急診療室にて着替えをしていた。ところが、あろうことか、それに文句を言ったバ看護婦が居たのだ。

 そのことが原因となったのかどうかはわからぬが、若い救急醫師の先生、それから間もなく辞めてしまった。そして、そういう救急部門に對する扱いに嫌気がさしたのか、長年勤めてきた救急醫長の先生も、間もなくやめてしまい、その病院には、せっかく救急の先生が二名揃ったのもつかの間、救急常勤の先生が居なくなってしまったのである。

 救急の醫局をつくらなかった理由を、事務は、場所が無いからなどとぬかしていた。しかし、その病院には、明らかにほとんど使われない無駄な部屋が多數あったのだ。例えば、名誉院長室なる部屋が、複数あった。名誉院長?以前その病院の院長をやっていた奴のことか?。だいたい、その病院の院長、長年その病院で勤めてきた醫師がなるのなら尊敬もされようが、そうではなく、どこぞの大学教授を定年退職した老いぼれが就くことになっていた。そして、何年か勤めて退職後は名誉院長になるらしい。

 そんな、ほとんど役立たずの、ろくに病院に來もしない呆け老いぼれどものために、複数の名誉院長室を用意して、必要不可欠な救急醫局をつくらず、結果、総合病院に最も必要な救急醫師を失ってしまうとは。こんなバカげた病院も、存在するのである。

 

紀元二六八二年 令和四年 四月八日