幕末、薩英戰爭にて、薩摩隼人はイギリスに勝利した | 日本國人

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令和元年・紀元2679年10月1日開始。

 歴史教科書等によると、幕末、薩摩と長洲が、攘夷から開國路線に轉向したのは、外国と戰って自らの非力を悟ったからだなどという書かれ方がしてあるものも、散見される。薩摩や長洲が、外国と戰い、その結果判明した外国の利点や長所を學ぼうとしたことは事實だ。しかし、特に薩摩は、イギリスずれと戰って、負けてなどいない。むしろ勝ったとさえ言えよう。

 薩摩とイギリスの戰い、薩英戰爭において、當時世界最強の海軍国であった英国は、末端の田舎艦隊を送ったわけではなかった。當時イギリスでも最新鋭のスクリュー推進蒸氣船、ユーリアラスを籏艦とする、精鋭東洋艦隊を送り込んできたのだ。この、籏艦ユーリアラスは、これまた最新鋭の大砲であったアームストロング砲を装備していたのだ。これを大東亞戰爭期の大日本帝國海軍に例えれば、真珠灣攻撃を成し遂げアメリカ太平洋艦隊を殲滅した、南雲機動部隊のようなものであったろう。この南雲機動部隊は、後に、イギリス東洋艦隊をも痛撃することになるのだが。

 話を戻そう。この精鋭艦隊を送り込んできたからには、イギリスは、單に鹿児島城下を焼き払うだけでなく、水兵を上陸させてでも、薩摩を屈服させるつもりで來たはずだ。しかしながら、籏艦ユーリアラスは、薩摩軍の大砲直撃彈を受けて、艦長副長以下多数の死傷者を出してしまい、他にも多数の艦が損傷することになったのだ。そして、結局は、一人の水兵も上陸させられず、すごすごとインドまで敗退せざるを得なかったのである。しかも、薩摩からは一兩の賠償金もとることができなかった。

 そもそも、薩英戰爭は、生麦事件から始まった。生麦事件とは、當時薩摩を治めていた島津久光の行列を、イギリス人どもが、無礼にも土下座もしなかったどころか下馬もせずに行列を妨害したために、薩摩藩士が穏便に諭して下がらせようとしたにも關わらず、従わなかったために、やむを得ず英国人を斬ってしまったという事件で、非は完全にイギリス側にあるのだ。大名行列は、單なる散歩行列ではない。軍隊の行軍である。それを妨害する外国人など、敵以外の何物でもない。薩摩の對應は當然であった。にも關わらず、英畜イギリスは、薩摩に賠償金を求めて攻め込んできたのである。そんな理不尽な要求を、誇り高き薩摩がのめるはずもなかろう。

 薩摩は、見事、世界最強の海軍国の、しかもその精鋭艦隊を、見事撃滅して國を守りきったのである。その上、イギリスは、薩摩と同盟を結ばされ。軍事協力までさせられる破目になったのである。薩摩隼人が、英畜ずれに負けるはずもなかったのだ。そして、同様の大規模なことが、實は、八十年後にも繰り返されるところだったのである。日本本土決戰、米国名オリンピック作戦である。もし、これが實行されていれば、薩英戰爭同様、鬼畜米英共は、薩摩隼人によって再び酷い目にあわされ、敗退することになっていたはずだ。

 

紀元二六八〇年 令和二年 九月七日