世界史と日本史の二分は、もはや時代遅れではないか | 日本國人

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令和元年・紀元2679年10月1日開始。

 現在高校等の歴史は、日本史と世界史に分かれている。世界史は、いわゆる四大文明以降、支那史と西洋史に分かれて書かれ、時々兩者の交流が語られはするものの、あたかも支那史と西洋史が世界史の二本足であるかのような説かれ方がなされ、近代になると、それが西洋史を中心としてまとまるという形になっているようにみえる。世界史の中における日本史の説かれ方が、極めて小さいのである。これは今、問題とされねばなるまい。

 そもそも、世界に文明らしいものが出現したのは、約一万五千年前からの、縄文文明を嚆矢とする。これは、考古學的にも裏付けられた事實だ。そっして、その後縄文時代中期頃、西亞細亞にも文明の萌芽が出現し、北アフリカやインド、支那にも文明が出現する、というのが、世界史の正しい流れであろう。そして、二六八〇年前に我が國が誕生してからは、東洋においては、次々と王朝が代わっていった支那がある一方で、その東には、一貫して續く日本があった。

 西洋では、ギリシアからローマ、ゲルマン人と、これまた王朝や支配民族が轉々とし、定まるところを知らなかった有様である。中世から近世になると、欧洲では、ようやく、イギリス、フランス、ドイツ、スペイン、ロシアといった、諸国の形は現れてくるが、王朝や強国は、やはり轉々。一方、支那は、あいもかわらず、異民族も入り亂れての、王朝交代大會が續いたことだった。

 そこにあって、我が國日本は、蘇我から藤原へ、貴族から武士へ、といった支配勢力の交代はありながらも、その上に、皇統は連綿として續き、日本列島を統らし續けた。そして、そして、東西の良きところも枝葉として取り入れながら、順調に暹化發展し續け、世界に大きな影響を與え續てきたのである。それは、現代に至るも同様だ。

 つまり、日本史こそが、世界史の軸たるべきであることは、世界史年表圖解を見ても、一目瞭然であろう。考古學の研究も暹み、日本こそが文明發祥の地であり、國家として二六八〇年も續く世界史上唯一の國である以上、世界史は、日本史を軸に、支那や西洋史を各論として教えられるべきであろう。すなわち、日本史と世界史の二分が、もはや意味をなさなくなってきているとも言えるのではなかろうか。・・・と書いているところに、再來年度から、高校の必修科目に、「歴史総合」なるものが登場するという新聞記事を目にした。注視していきたい。

 

紀元二六八〇年・令和二年 八月一九日