國士、小園安名厚木航空隊三〇二航空隊司令 | 日本國人

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令和元年・紀元2679年10月1日開始。

 ポツダム宣言受諾時、先の當ブログにても述べたように、玉音盤事件(宮城事件)のような、眞の國士・愛國者による、義憤に滿ちた行動が行われたのだが、帝國海軍においても、同様の義行がなされようとした。ポツダム宣言受諾工作は、主に海軍によってなされていたのであるが、その海軍の中にも、ものがわかった、先の見える方がおられたのだ。厚木基地第三〇二航空隊司令、小園安名大佐である。

 小園司令は、ポツダム宣言受諾を良しとせず、降伏に従った海軍腰抜け司令部の指揮下を離脱、部隊に「日本は神國、降伏はない、國體に反するごとき命には絶對服さない」と訓示を行い、「三〇二空は降伏せず、以後指揮下より離脱する」と、腰抜け司令部に傳達、他部隊や陸軍、國民にもビラを作成して空中配布する等、文字通り、檄を飛ばした。海軍腰抜け上層部は、驚愕、どうにかおさえようと、説得を試みたが、小園以下、三〇二空は、翻意しなかったのである。

 三〇二空は、首都圏の防空を担う、大日本帝國海軍航空隊最大の基地航空部隊であり、「零戰」、「雷電」といった戰鬪機が多数配備され、B-29に對する防空にあたっていた。その三〇二空の指揮官であった小園司令は、大變部下思いで、人望厚い指揮官であったという。それは、先述したように、上層部の説得に誰も應じなかった事實からもうかがえよう。また、小園司令は、新兵器新戰術の發明家でもあった。例えば、夜間戰鬪機「月光」は、小園司令の發明である。失敗作偵察機であった「月光」の前身に、斜め上を射撃する斜銃を装備し、大型爆撃機の死角、下後方から接近して射撃すべく改造を施し、戰果をあげたのだ。また、小園司令は、いわゆる特効作戰には、否定的であった。あくまでも生き残って戰果を擧げることを正道と考えておられたようである。

 このような、義と人情に厚く、頭脳明晰な小園司令が、日本が勝つためにと若者に特攻をさせ、擧句の果てに降伏などするような海軍上層部に、従ううことなどできなかったことは、全く了解可能である。小園司令は、あくまで筋を通そうとしたのだ。ところが、その後、小園司令はマラリアが再發した・・・とされ、心身不覺の状態となって、精神病棟に入院させられ、志は遂げることができなかった・・・のだが、實は、このマラリア罹患に對しては、疑惑があるようだ。マラリア再發ではなく、司令室に毒物(噴暹ロケット戰鬪機「秋水」の燃料補助剤)が撒かれたため、藥剤性心身障害に罹患してしまったというものだ。真偽のほどは謎だが、あり得る話であろう。ともかく、小園司令は、玉音盤事件をおこした方々同様、眞の國士である。

 

紀元二六八〇年・令和二年 八月一八日