徐福 1   | 大山蓮華

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ちょっと不思議な体験や感じたことを
古文献や民話や伝承などや遺跡の発掘資料などを参考にして
謎解きをしています

 

 

 

   この記事は 斎木雲洲氏の書と 富當雄氏の伝承と

   中国の古文書と 遺跡などを参考にしています

 

 

   中国の古文書によると

   秦の徐福は  

        紀元前221年に秦(始皇帝)に滅ぼされた斉の出身

        字名(あざな)は彦福

       (紀元前278年~紀元前208年?)

        中国の資料なので 生没年は中国の推測と思われます

 

   父は 徐猛   

   母は 千千姫  

 

 

 

   徐福と両親は 

   古事記・日本書紀などには記載されていませんが

   多くの異名で記載されています

 

   徐猛の異称  オシホネ・オシホミミ

     オシホネ=アマノオシホネ

     押穂根・忍骨・天忍穂根・正勝吾勝勝天忍穂根尊など

     オシホミミ=アマノオシホミミ

     正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命・正勝吾勝勝天忍穂耳尊・天忍穂耳など

 

   千千姫の異称 

     タクハタチヂヒメ

     栲幡千千姫・萬幡豊秋津師比売・栲幡千千姫萬姫・天萬栲幡媛など

     タカミムスビ

     高皇産霊・高御産須日 

     高木・高木神

 

 

   徐福は 中国の古文書「史記」などによると

   「紀元前219年に数千人の童男童女を連れて旅立ちました

 

   一度帰国しましたが翌年

   「紀元前210年再び 五穀の種子と 

   「多くの技術者と3000人の童男童女を連れて旅立ちました

 

   多くの種子や 先進の技術などを持ってきているので

   日本文化の発展に大きく寄与したと思われます・・・

 

 

   ・・・出雲の伝承・・・

   紀元前219年に出雲に渡来した徐福は

   部下であるホヒ(穂日)と息子のタケヒナドリ等を 先に上陸させ

   出雲王ヤチホコの神門臣家に仕えさせ

 

   徐福はホアカリと名乗り 数千人の秦人を連れて

   石見の五十猛海岸から上陸した

 

   (古代中国ではペルシャから来た人を秦人という・・・らしい)

 

   徐福の2度目の渡来地は有明海と伝えられています

   徐福・母の千千姫も一緒に来たと伝えられています

   徐福は ニギハヤヒと名乗り 千千姫は高木と名乗ったと伝えられています

 

   記紀では 日向の高千穂峰にニニギノとして天孫降臨した と記されています

 

   神社の祭祀に関わっていた忌部氏は 徐福と共に渡来したと伝えられています

   ・・・  ・・・

 

 

   吉野ヶ里遺跡は紀元前2世紀頃に形成され始められたそうです

     徐福の渡来時期と一致しますね

 

     筑紫の語源は 諸説ありますが秦が築いたので筑秦でしょうか

 

 

 

 

   徐福が渡来した頃

   博多湾と有明海は繋がっていたそうです

 

 

                   

                           この画像はネット上からお借りしました

                    海面は 現在より50mくらい上昇した画像です

 

 

   博多湾は 上津海

   有明海は 下津海

   その中間が 中津海

 

 

   中津海が堆積してから創建されたと思われる

   久留米市の赤司神社の由緒によると

   始めは筑紫中津宮と呼ばれ 後に止誉比咩神社(豊姫)

   戦国時代に社号を八幡宮と変えています

 

 

 

   志賀島の志賀海神社は

   海洋の神「少童命」(わたつみのかみ)を祭神としていますが

   何故 少童命でわたつみのみことなのか

   何故 表津綿津見・仲津綿津見・底津綿津見の三神なのか

   疑問だったのですが・・・

 

   出雲の雲南市に河邊神社があります

   相殿の海原神社の祭神が

   大綿津見三神(上津海童命・中津海童命・下津海童命)と記されています

 

   徐福は 

   多くの技術者と 3000人の童男童女を連れてきたと伝えられています

   志賀海神社は

   亡くなった童男童女を祀ったのが始まりかもしれません

 

      

      徐福一行を連れてきたのは 

      航海術に長けていた倭人(=安曇族?)かもしれませんね

 

      志賀海神社が現在地に遷座したのは 2世紀頃と伝えられていますが・・・

 

 

                    下図は久留米市文化財調査報告書から

                  

 

   右が右佐島(宇佐島) 左が佐々島

   博多湾の右が志賀島 左に伊都国(糸島)

   中津海は堆積して消えてしまいましたが

   大分には宇佐 長崎には佐々という地名が残っています