結社誌「深花」贈呈頂きました。 | 俳句とお星様と山歩き

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俳句は、日々の散歩の頂きものです。お星様の話は、今は中断中です。山歩きは、主に奥多摩周辺が主です。2006年1月6日に開設したヤフーブログから移転してきました。よろしくお願い申し上げます。

 

結社誌「深花」贈呈賜りました。大木雪香主宰ありがとうございました。主宰の句を六句ほど、拙い鑑賞ですがさせて頂きます。ありがとうございました。

 

初日の出何も言つてはくれなかつた

 初日の出を二人で見た時のことだろう。 その二人の関係によって、「何も言ってはくれなかった」の内容が違ってくるが、本来 言われて当然と思っていたことが言われなかった落胆が描かれている。「た」と過去形で語っているところから回想であろうかとも思うが、 いずれにせよ 物語の広がりがあり、 この落胆を救う季語は初日の出以外にはあり得ないようにも思った。

 

 

寒明けの水に屈折ありにけり

 どうして「寒明けの水」に屈折を感じたのか、凍てが少しでも緩んで、その水に明るさを感じたのではないか、それを明るさとは言わずに「水に屈折」と表現してより季感を想像させるように描いたところがこの句の素晴らしいところではないのかと思った。

 

 落第のしさうな主婦のテラス席

 何人かの主婦がテラス席で延々と 取り留めもなく、 次から次へと話題を変えては楽しく会話を楽しんで、本音なども漏らしつつストレスを解消している姿が見えてくる。 いささか 唐突に「 落第のしそうな」と上五から一気に読み下せるが、 この措辞が見事に決まって、うららかな午後のテラス席の主婦の様子が手に取るように見えてくる。このくだけた感じが春にぴったりではないだろうか。こういう措辞は、見たことがない。

 

 

 浄土まで 桜枝垂るる東漸寺

 有名な寺であるのかどうなのかは、もしかしたらそこがお父さんのお墓のあるところかも知れないので、 この固有名詞でなければいけないものなのかも知れない。立派な枝垂桜なのだろう、 ふと京都の醍醐寺の枝垂桜を思い起こした。 浄土までの措辞でこの枝垂桜 が特別な桜であると知れる。 もしかして浄土におわす父親との思い出がこの枝垂桜 によって結ばれているのではないだろうか、 そういうことを思ったが、そうでなくとも、浄土まで枝垂るると言う発想それ自体が見事です。

 

流氷の最期は空と同じ色

 これは沿岸から最後に流氷が見られた「 流氷終日」のことを言っているのだろう。「海明け」が宣言された後のことではないか。 いずれにせよ海から流氷が消えた日のことで、この消えた日の風景を、「最期は空と同じ色」と詠って見せた。ないものを詠って見せる句の強烈な力にただただ感嘆するばかりである。

 

 厩出し影は居場所を失へり

 春になって馬が放牧されたのであろう。馬が厩にはいない訳であるから、 その影もある訳はないけれど、厩から出した馬も含めた全ての影が居場所を失って、厩は本来の明るさを取り戻して、厩にまで春が来ているような感じをさせるところが、この句の上手さ。思っても見ない影という言葉によって、厩出しの季語を十二分に生かしきった手腕に、驚きを覚えるばかりである。