吉野へと浮き立つこころ西行忌  夏生 | 俳句とお星様と山歩き

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俳句は、日々の散歩の頂きものです。お星様の話は、今は中断中です。山歩きは、主に奥多摩周辺が主です。2006年1月6日に開設したヤフーブログから移転してきました。よろしくお願い申し上げます。

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やっぱり、花は、吉野である。どのような素晴らしい千年の桜があったとしても、桜の並木があったとし

ても、花は吉野である。これは、吉野の桜を見ているから、そういうのであって、見ていなければいうこ

とは、不可能である。吉野は山桜、吉野の桜がいっせいに咲くことなど考えられない、下千本・中千本・

上千本・奥千本である。予想すると、一月近くかかるのではあるまいか。私が見させていただいたとき

は、中千本が最盛期の頃で、上千本の途中まで迫っている頃であった。だから、宿から見える山々の、山

桜の息を飲むほどの美しさ、桜がすみ、桜で、山がかすみ、空がかすみ、野がかすみ、こころがかすみ、

ここちよい酔いにも、吾が身をかすませ、まさに、かすみそのものになって、天上に浮いている、そんな

浮遊感を持つほどであった。この吉野の桜に比べたら、この世の桜なぞ、何ほどのことがあろうか、吉野

の桜は、この世のことにあらず、現世でありながら現世ではない、かすみの果てに浮遊している、そんな

桜なのである。さらに、奥吉野の桜は見てはいないが、蕾は見ている、それで、十分、たっぷり十分。そ

の蕾だけで、十分に想像でき得る、桜なのである。それが、吉野の桜、よくぞこれほどの桜になってくれ

たと、そう思う心がある。ああ、これこそ桜、これが桜。西行忌なのである。


作者  藤堂夏生  青梅在住。
「半蔵門俳句会句集掘廚茲