ても、花は吉野である。これは、吉野の桜を見ているから、そういうのであって、見ていなければいうこ
とは、不可能である。吉野は山桜、吉野の桜がいっせいに咲くことなど考えられない、下千本・中千本・
上千本・奥千本である。予想すると、一月近くかかるのではあるまいか。私が見させていただいたとき
は、中千本が最盛期の頃で、上千本の途中まで迫っている頃であった。だから、宿から見える山々の、山
桜の息を飲むほどの美しさ、桜がすみ、桜で、山がかすみ、空がかすみ、野がかすみ、こころがかすみ、
ここちよい酔いにも、吾が身をかすませ、まさに、かすみそのものになって、天上に浮いている、そんな
浮遊感を持つほどであった。この吉野の桜に比べたら、この世の桜なぞ、何ほどのことがあろうか、吉野
の桜は、この世のことにあらず、現世でありながら現世ではない、かすみの果てに浮遊している、そんな
桜なのである。さらに、奥吉野の桜は見てはいないが、蕾は見ている、それで、十分、たっぷり十分。そ
の蕾だけで、十分に想像でき得る、桜なのである。それが、吉野の桜、よくぞこれほどの桜になってくれ
たと、そう思う心がある。ああ、これこそ桜、これが桜。西行忌なのである。
作者 藤堂夏生 青梅在住。
「半蔵門俳句会句集掘廚茲