タカハシのタカの目 ~1%の成功>99%の敗北~ -199ページ目
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4 タカハシジュンエツとは何者なのか?

ご興味ないかもしれませんが、軽く目を通してもらえると嬉しいです。




 1964年9月2日、宮城県加美郡色麻村で生まれました。産声がなく、
医者や看護婦が懸命に叩いてくれてようやく一声発したそうです。


もう少し遅ければ声を失っていたかもしれないとの話を聞きました。

まもなく東京オリンピックが開催。
ついこの間北京が終わったばかりですね。。(8月31日に書きました)


当時22歳だった母は、病室で見ていたと言っていました。
体が弱かったのでしょうか。

一段落して横浜へ引越し。父が勤めていた
石川島播磨重工(IHI)の笹下にある社宅団地に3、4歳の頃まで。


その頃妹が生まれました。結構可愛がっていたと思います。

私は物心付いたころから左の視力が0,1。右は1,0あるですが、
片方だけ向いていつもテレビを見ていたせいだろうとのことです。


いわゆる弱視、まあ支障を感じたことはあまりありません。
これが当たり前なので。


人間は皆こうなのだと10才過ぎるまで信じていました。

あえて言うなら野球など
左に構えたとき球の感覚が分からなかったりした、その程度です。


やはり横浜時代、
額を縫う怪我をしたことがありますがそれは関係ないでしょう。

幼稚園に入る前に千葉の船橋市へ。いわゆるここが私の故郷です。
成人するまで住んでいました。

小学校の時の教師に志位先生がいました。担任ではありませんでしたが。
友人によれば、あれは志位和夫のお父さんだとのこと。
・・・本人だと思うのですが。(未確認)

もしかしたら全くの記憶違いで、
ただポスターを見ていたためそう錯覚したのもしれません。
30年以上前の話です。

サッカークラブに所属していましたが
一度も試合に出させてもらったことはありません。

中学は1クラス40人以上、1学年で14クラスありました。
この頃は特に珍しいことでもなかったと思います。

中1の必修で合唱クラブを選び、
3学年で男子は私一人でした。7~800人もいるというのに。


とても後悔し、1年間週1回の必修がとても憂鬱だったことを思い出します。
今だったら逆にワクワクですが。

そんな時クラスメートの大原がとんでもないネタを持ってきました。
「おい、来年キャンディーズ解散だってよー」


それが中学時代最もショッキング~な出来事といっても過言ではありません。
(TV見ませんでしたが、この日エドさん24時間はしってました)

部活はテニス。やはり選手ではありませんでした。


「俺はスポーツは向いていない」
この思いがその後の人生を左右することに。

そう、高校進学と同時に私は演劇の道へと足を踏み入れたのです。


その高校は私たちの代で2年目。
つまり入学した時3年生はいませんでした。

演劇部に入る、
決めてはいたもののあの合唱クラブ、恐怖と不安がよみがえります。
けど、そんな不安はあっという間に解消されてしまいました。

新入生歓迎会での演劇公演。
なんと男の先輩の方が多いではありませんか。

ここだ。ここの高校で間違いなかったんだ。
もし私の偏差値がもう少し高かったここへ来ることもなかった。
興奮しました、私の輝ける未来に。

先輩は男子10人、女子5人でした。しかも創立1年目にして

関東大会3位の実績を残していたツワモノ達だったのです。


宮盛先輩、早苗さん、
ジュンコ先輩、クミコ先輩、デメ先輩。皆優しかった。

男子の先輩には泣きを入れるまで鍛えられたことも、


その甲斐もあり、私の代では全国大会まで行かせてもらいました

ので感謝です。

私の9つ下に欽ちゃん劇団の入山学、13期下に女優の占部房子
などがいます。


面識はありませんが、共通点は同じ師に学んだと言うことでしょうか。

高校演劇界では有名な先生です。ドラマ化されても良いくらいの

エピソードを持った人物です。(当時は30くらいでしたが)

1年の終わりの頃パーマをかけて、部を辞めかけ取っ組み合い

までしたこともありました。(殴りはしませんでいたが)

ここから巣立ち、
又はここを足がかりにして自ら劇団を立ち上げた者も何人かいます。


裏方として飯を食っている者もいます。
私のように無名だが活動している者も大勢いると思います。

さて、高校入学と同時に劇団の養成所にも入りました。
初舞台は高3の時、演劇部を引退した直後です。

一応受験生でしたが勉強しませんでした。
日大芸術学部、落ちました。


もし受かっていれば三谷劇団に参加していたかもしれません。

「マッチ売りの少女」。主役は当時6、7歳くらいだった小川範子


「重美ちゃん、今日学校どうだった?」
などと気安く話していました。憶えていないでしょうが。

他には高木美保さんなどがいました。


同じ劇団員だったのでよく会ってはいましたが話した記憶はありません。
けど挨拶はしてくれていました。私の方が後輩だったのですが・・・

21になる前に劇団を辞め、22で渡米。
ワシントンDCで友人らと商売をしていました。

友人の一人はホワイトハウスまでのジョギングを日課にしていました。
エアガンで撃たれ失明してしまった友もいました。


ニューヨーク、フロリダ等へも遠征して稼いでいました。

24で帰国。昭和の終わりは日本で迎え25で再び芝居を・・・。

それから今日まで芝居とバイトの繰り返し。


といっても最後に舞台に立ったのはもう3年も前。
TVのチョイ役も11月にやったきり。

そんなこんなでもうすぐ44.。

輝かしい未来は果たしてやってくるのでようか。



長らくのお付き合いありがとうぼざいました。

では本日、もう3,4本アップさせて頂きますのでお読み下さい。

3 市川由衣 15歳、高校1年生です。 その1

 ・・・2001年5月26日。
「”渋谷系女子プロレス”、書類通りましたので、台本FAXしますね」

書類に通ったということは、出演決定ということだ。
今回、オーディションは受けていない。
つまり事務所がクライアントにタレントの書類を送ってそれのみで合否を
判断するというありがたいパターンだ。

オーディションをわざわざ受けて受かればいいが、落ちればショックもあるし
エネルギーも結構消耗する。
書類選考なら 「あ、落ちたの」で済むからだ。

マネージャーからのTELが切れると、まもなくおびただしいまでのロールが
流れてきた。
その当時まだ普通紙機ではなかったが、さすがにこの件でうんざりした俺は
買い換える決意をした。

・・・5月28日。
3ヶ月勤めた赤羽駐車場での夜間アルバイト、最後の1日が終わった。

「お疲れ様でした。こんな形になってしまったけれど、これからも頑張って
下さい」朝、出勤してきた隊長に言葉をかけてもらい、俺はロッカーの荷物を
まとめた。

やめたとはいってもクビのようなものだ。
この頃の俺はなかなかバイトが続かなかった。
いつも喧嘩をしたり、態度が悪いなどとの理由で職を転々としていたのだ。

20才位ならまだしも、35を越えた大人なのに情けない、そんなタイプだ。

今日はこの後、”渋女”撮影のため1時に渋谷に集合。
8時に勤務が終わったので時間はまだある。

いったん百合丘のアパートに帰ることにした。

勤務最後でなければ直接渋谷へ行ってブラブラ時間をつぶしていたかった。
交通費も馬鹿にならない。

貧乏役者には100円、200円の出費が大きくこたえるのだ。
が、今日は荷物も多く、
この状態でぶらつくのも疲れるので帰ることを選択した。

、12時半、渋谷に着いた。井の頭線だ。
道玄坂を上って、どっかで曲がった所にあるビルの前に集合。
しかし、こんな所、俺はめったに来ない。

渋谷、電車で30分位だが、年に1回来るか来ないか。
4~5年行かなかった時もある。

地図を手にしながらも迷った。逆の方に行ってしまった。
駅から5分と書いてあったが、早目に着いていて良かった。
何とかギリギリ間に合った。

マネージャーの英樹君が待っていた。俺の名は高橋。
2人を足すと高橋英樹になる。ウソのようなホントの話。

ちなみに本物の高橋英樹さんとも3度ほど共演させて頂いた

ことがある。 それはまた別の機会に。

「迷いました?」
「うん、あっちの方行っちゃって」

そうこうしているとそこへ、少女とそのマネージャーらしき青年が現れた。

「由衣役の子?」 「はい」
俺の台本 (といってもコピーFAXだが) には由衣の父役とあった。
なので市川由衣というのがまさか本人の名前だとは思わなかったのだ。

しかしプロレスラーにしてはずいぶん華奢だなあ、
それが彼女に対する第一印象だった。

マネージャーに尋ねた。


「プロレスラー、なんだよね」
「いえ、タレントです」
「え?」

俺はどうやら勘違いをしていたようだ。 サブタイトルに

”1%の真実と99%のファンタジー”(だったかな)とある。

そう、ドラマだったのだ。ドキュメンタリーじゃなく。

いかに台本をよく読んでいないか、今更ながらつくづく自覚した。

「市川由衣 15歳です。よろしくお願いします」

これが出会いだった。


                                      つづく  



関連記事


市川由衣 15歳、高校1年生です。 その2



市川由衣 15歳、高校1年生です。 その3(完結編)



市川由衣君との共演シーン



                                      2010・8.16



2 仮面ライダーと9・11

こちらは、2008年9月11日に書いた記事です



 「俺は天国へ行く。だから良い事をする」 面白い怪人、
いやファンガリアだった。 かなりの強敵だったがついにやられた。

キバは毎回観ている。 仮面ライダーと名がつくとどうしても気になる。
俺にとってのライダーとは、もちろん、1号、2号、V3…等なのだが。
平成ライダーも何シリーズか観ている。

そういえば、キバの映画にホリケンが出演したが、昔、ネプチューンの番組に
出たことがあるので、またの機会に話そう。

さて、キバの話はここまで。 今回は・・・・








 ・・・・2001年9月10日、東映大泉撮影所へ行った。
この日は台風、雨は朝から降っていたのかだろうか、そこまで覚えてはいない。

ロケバスにて群馬へ。どこかの会社か、病院のセット。

「仮面ライダーアギト」 第36話。俺は手術医の役だった。 台詞は2つ。

その日は残念ながら、ライダーも怪人(アンノウンだったかな?)も現場には
いなかった。

重傷を負った兄弟、弟の方は助かる見込みがない。
その弟の体を使って兄を救出する。そんな役だった。

「弟の腕を兄の体に移植する」わかりやすい台詞。子供には難しいかな?

またまた残念なことに、オンエアでは顔にボカシがかかっていた。
俺だということは判明できなかった。
一応声だけは俺だ。これで吹き替えされていたら最悪だ。

手術を受けた兄はその後、ライダーに変身。
あれは別に改造手術だったわけではないと思うが、何らかの事情で変身。

アナザーアギトとしてドラマ終盤活躍していた。

菊池隆則さんと言うTV小説にも出ていた俳優だ。


菊池さんは待ちの間、

同じ事務所の後輩とバイクの話をしていた。ライダーだけに。

この日の監督は長石さんだったろうか。
年配の方だった。昭和ライダーの頃から居られる人だ。

私は今、川崎市の多摩美に住んでいる。そう、東映生田撮影所があった
所だ。家から歩いて3分なのでたまに行く。

ここで蜘蛛男が・・・、ああ、ここは蜂女の回で使った建物だな。
緑川ルリ子もここを歩いたのか・・

先月、35年来の友人が遊びに来た時、自慢げに案内した。
「ここ、本郷猛のマンションだぜ」 と。

ライダーといえば2号、
一文字役の佐々木剛さんと町田の駅下ですれ違ったことがある。
だいぶ前のことだが。

アギト役の賀集君は、その後、「はぐれ刑事~」の現場で2,3回見かけたが
絡みはなかった。藤田まことさん、岡本麗さんもいた。

岡本さんは何か声をかけてくれた。


 翌、9月11日、やはりこの日も台風、あまり荒れてはいなかったと思うが。

教育ビデオのナレーション撮りで我孫子へ。
エムスリーのさつきさんという、
わりと再現ドラマに出ている人と待ち合わせ中お話した。

そしてその夜、同時多発テロが起こった。
ニューヨーク、俺も何度か歩いたことのある街だ。


知り合いもいた。 無事だったろうか。 







PS)
 今日は2008年9月11日、あれから7年。
先日もテロによって若者が拉致殺害された。いつまで続くのか。

「戦争はなくならない」 これが現実の世の中。

だから、せめて子供らには仮面ライダーのようなものを通して心を
育んでもらいたい。

また、作者にはそういうものをいつまでも意識していてほしい。









以前、ヤフオクで購入したライダーカード47枚とアルバム1冊
昔の物だと思ったら、99年版でした。


どなたか送料込み¥1500でどうでしょう。¥2000で落札した物です。

1名のみ。(状態かなり悪いです)


22日現在まだあります。誰か買ってくれー。

1 品庄と綾瀬はるか



  2001年、10月2日。 

「品川庄司って知ってます?」 「うん、知ってるよ」

マネージャーからのTELにそう答えた俺だったが、その時、2人組であると
いうことは知らなかった。 

知っていたというよりも、名前を耳にした程度の認識といった方が正確である。
いや、というより村上ショージと勘違いしていたと思う。


  翌、10月3日。 その朝を迎えた。

集合場所は京急線のあまり聞きなれない駅だった。

私は、当時日記をつけていたが、前回 ”市川由衣” 同様、日記は見ず、
記憶を頼りに書いている。

元来、めんどくさがりな為わざわざ押入れをひっくり返すのはかったるいのだ。
いずれそういう機会があったらまた、追記など出てくるかもしれない。

最低限の日程、主な出来事に関しては、手元に10年日誌というものが
置いてあるのでそれを参考にはしている。

多少記憶違い等もあるので、1~2割はフィクションも混ざっていると思って
読んで下さい。


・・・・そこは、住宅街 (後に分かったのだが庄司君の実家の近くだった)、
車にて待機するよう指示を受けた。

今日の仕事は、「品庄内閣」第3話。 1,2話はまだオンエアされていなかった
と記憶している。していれば観ているはずだから。

深夜の時間帯ではあったが冠番組を持つということはエライ事だ。

車内には年配の男女が乗っていた。どこかのエキストラさんだろう。
そう思っていたので軽く会釈を交わした程度、話はあまりしなかった。

まさか、庄司君のご両親だったとは・・・。遠慮してか御2人もあまり無駄話など
せずにいた為、夫婦だとも見抜けなかった。

土手では若者らが番組を収録中。 その中にいた女の子、それが綾瀬はるか。
まだドラマなどにあまり出ていない頃だ。

私はホリプロのスカウトキャラバンを観ていたので、一応顔と名前は覚えていた。
しかし残念なことに、その日は認識できていなかった。

私が、あの時 マスコットガールとして来ていた少女が ”アヤセ~”と知ったのは
家でオンエアを観た時だった。

「ア、綾瀬はるかが出ている」・・と。
しかもその隣に立っているのはまぎれもない俺だ。 

ちょこんと、お人形さんみたいに彼女は映っていた。
なぜ当日気が付かなかったのか、今でも悔やまれる。

気が付いたからといって、「オス、かわいいね」等と間抜けなことは、・・・今の
俺なら言わない。が、当時の俺なら言ってしまっていたかもしれない。

vol 5 で登場した元同僚の村野君が綾瀬はるかの大ファンで、
夜間暇なときいつも彼女のドラマDVDを観ていた。そう、村野武範さんの甥の。


車にて場所を移動。 ご両親も一緒だ。

蒲田のマルエツへ。 
そこで降り、ディレクターと品川君と3人で打ち合わせをした。

私は品川君と共謀して庄司君にドッキリを仕掛けるという役どころだった。

こういうバラエティはよくヤラセという説もある。 実際のところは分からない。
庄司君が、こうこうこういう感じで、と Dに言われていたのかどうかは。

しかし、少なくとも台本はなかった。品川らとも段取りをきちんと話し合った。
彼は元ヤンだけあって礼儀のしっかりした男だった。

俺は、現役の悪ガキに理解を示す話の分かるオヤジではないが、
昔の、ツッパリという言葉は嫌いではない。

また、こいつ頭の回転が速いなという特徴も、品川君からは見抜いた。
しかし、後に小説を出したり、メガホンを取ったりするような人物にまで
成長するとは予想していなかった。

映画 「ドロップ」なぜ俺にも声をかけてくれなかったのか。
パート2では期待する。

さて10年位前か、庄司君はこのマルエツでパンツを万引きし
補導されたらしいのだが、その時の警備員というのが俺のポジションである。

もちろんニセモノだ。 俺は警備員のバイトはよくやっているが蒲田の
マルエツでやったことはない。

打ち合わせは5,6分だ。 すべてアドリブ。
編集されるのでしゃべったこと全てがオンエアされるわけではないが。

品川が庄司の元へ。 庄司は目隠しをされて歩いている。隣に綾瀬もいる。
3人が通りかかったところで俺がおもむろに声をかける。

「あれ、庄司君、庄司君だよね?」(わざとらしい)これがアドリブ第1声だった。
・・・・(以下、省略)
3人でのやり取りをはるかチャンが見守っている、といった構図か。

ころあいを見て、年配エキストラが現れる。
その後のやり取りで初めて庄司君のご両親であることを明かされるので、
俺もドッキリを仕掛けられたような気分だった。


マルエツを通り過ぎ、収録はまだまだ続いただろう。俺の撮りは終わった。
まだ明るかった。 今日は拘束2~3時間程度だ。

10年日誌には、この後、川崎のブックオフをのぞいたと記されてあった。



PS)
3人とも今や大活躍のタレントです。 中堅となった彼らが初心を忘れず
謙虚に頑張っている姿に励まされる私です。

この番組では程なく、ADさんが失踪したとかクレジットに出ていました。
私が面倒見てもらったスタッフさんだと思います。元気なのでしょうか。


明日は、「仮面ライダーと9・11」 お送りします。(予定)
                   

追記)


もしマネージャーからのTELに"品庄"のことを知らないと答えていたら

今回の共演は実現しなかったかもしれない。


大ウソはいかんが、多少ハッタリをかましたり、ホラを吹いたりする、

これも人生には必要なのかもしれない。



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