自分が読んだ本に、他の人はどんな感想を持ってるんだろう、と興味があります。考えてみれば、子どもの頃は回し読みが大好きでした。同じものを読んで、共感してキャーキャー騒いだり、好きなポイントが違うのが面白くて、お互いの押しを延々と話し合ったりしていた気がします。
そういうこともあって、前回の日記で「花のズボラ飯」を読んだことを書いてみて、他の人はどう思っているんだろう、と気になり、手っ取り早くAmazonのレビューなんかを読んでみたら、レビューの場がえらい混乱しててビックリしました。いったい何でこんなことになっているんだろう。
とはいうものの、ある物語を何らかの理由で面白くない、と感じたとき、そもそもその作品の存在意義に腹を立てる人の気持ちも分からなくはないんですよね。というのも、若い頃、自分が摂食障害に陥ってたタイミングで、それを茶化したような内容の漫画を読んで、ひどく神経に触ってしまい、読後は、「お前に摂食障害の苦しみの何が分かるんだ」と叫びだしたい気持ちになったことがあったので。
そのことは、作家が扱ったテーマが、問題の当事者の読者との間では、思い入れに隔たりがあるらしいことを、強く意識させられた出来ごとでした。以来、読書をするときは、作品から距離を置いて、心酔しないように自己防衛するようになったかもしれません。
あのとき、作家を恨んで、何日何日も不快感を抱え込んだ自分も確かにいたのに、Amazonのレビューで、同じように怒り・苦しんでいる感情剥き出しの文章を目にすると、びっくりしてしまう。目に入る文字というものの持つ力の強さなのか、あの頃の自分を見ているようで痛い気持ちになるのか、恥ずかしいような気持ち。一方で、その物語の役が嫌いといっちゃうのは、悪役に背中を刺されそうな主人公に危ない!と言って、舞台に上がっちゃうお客さんみたいで、何だかつらくもあった。
ところで、前日夫に勧められた「まおゆう」はまだ半分読めていないので、もうちょっと頑張ろう。
追記1:そういえば、西村賢太「瘡瘢旅行」を読んだときに、あまり身勝手に見える主人公に、いい人と言われたくて努力をしてる自分を、無駄な努力だと嘲笑われた気になって、相当身悶えたことを思い出しました。あらためて怒りの理由を考えると、古書の一点には妥協せず生きている主人公を羨ましく感じているんだろう。自分が曲げられないことに、これでもかというくらい打ち込んで、とっくに愛情の冷めている恋人とその金を都合よく使うとか、単純に内にある良心と照らし合わせると、怖気が立つほどの嫌悪感なのだが、自分のいい人でいたい・いい関係でいたい、理非が通じたい、という願いは、自分の心地よさと対立すしてしまうから、自由な乱暴者に憧れてしまうのかもしれない。


