掘っくり返し屋のノート⑲『労働者ゴルファーとしての宮本留吉』 その2 | 「ケ・セラ・セラと生きて、セ・ラビと酒を飲み・・・」大叩き男(イラストレーター渡辺隆司)のブログ

掘っくり返し屋のノート⑲『労働者ゴルファーとしての宮本留吉』 その2



宮本の回想記には徴兵検査のあった年に父親が急逝し、家業の茶店を継ぐかどうかという時に知人の別荘周旋業者の紹介で広岡に雇われたとある。
この二つの時期については、宮本の誕生日1902年9月25日と、検査のある時期が満年齢20歳に成った年の4~7月であることを考えると1923年の事で、半生記でも24年12月の茨木CCへ雇われた記述で『父は前年に没し』と触れられている。

※この事を考えると1章で取り上げた、家出をして馬方になっていた時期は、二十歳に成るかならないかの1922年の秋口から23年のゴルフシーズン前の間ではないかと筆者は考察する。また、1954年の座談会では23の時に広岡の書生となった。と語っているが、数え換算でも1年程ブレがあるので、南郷のキャディになった年齢共々今回は除外する。

広岡の下に就いてからの仕事は、南郷の時同様別荘の管理や用足しとゴルフのお供が主であったが、プレー技術がだいぶ向上していた事から、広岡やその家族にお手本のショットを見せてアドヴァイスをするなどコーチ的存在にもなっていて、夏は六甲、その他の季節は毎週日曜に広岡が会員である垂水の舞子CCへキャディとして同行している。
※舞子CCは宮本の前の主人で在った南郷三郎が有志と興した倶楽部であるが、南郷に雇われていた頃はお供をせず、六甲のみでの活動であった模様だ。

舞子は地理的に少し離れている他、交通機関の問題で京阪のゴルファーにとっては行くのに手間がかかったが、山暮らしの宮本も同様で、前日に山を下りて神戸の姉の嫁ぎ先に泊めてもらい、翌朝三宮駅で広岡の乗っている列車に合流し、垂水駅からタクシーでコースへ。帰りは大阪天王寺の広岡邸に泊めてもらい翌日邸宅を出て列車に乗り、最寄りの駅から山を登り帰宅するルーティンであったというから大掛かりである。

広岡のゴルフのお供をするようになってからは、その腕前が関西ゴルフ界で広く知られるようになり。舞子へお供に出かけた際はプレーを終えクラブハウスに居る広岡を待っている時や、帰りの列車までの時間がある時に度々会員達が宮本に1番ホールをワンオン出来るかどうかを試させる事があり、皆が宮本の豪打を見るのを愉しみにしていたという。
(ここは250yd前後の谷越えかつ打ち上げホールであったので、乗せるには230ydのキャリーが必要であった)

半生記では、この時に所属プロの福井覚治、アシスタントの越道政吉、ハウスキャディの柏木健一(九鬼隆輝付きキャディで知られ、後広野GCヘッドプロ)らと会員達にショットを見せていたとあり。広岡の『茨木の思い出』でも自身の昼食の合間に宮本が柏木と一緒に練習に勤しんでいた事が触れられている。
広岡は勿論のこと半生記著者の伊藤は舞子CC初期からの会員でも在るので、そういった光景を見ているのは間違いない。
宮本は今まで以上にゴルフに多く触れる生活をしていたが、広岡の下について二年目、彼の人生を決定付ける転機が訪れた。

1923~24年当時、関西ゴルフ界には六甲・舞子・鳴尾・甲南(横屋)の4つのコース(倶楽部)があったが
・六甲はサンドグリーン・サンドティの旧態的なレイアウトかつ夏季リゾートコースなので通年向きではない。
・舞子CCは交通の便とコースコンディション(地形と土壌・芝付き)が悪く、12ホールの変則的レイアウト(のち元の9ホールに縮小)、加えて交通の便が悪い。
・鳴尾GCは9ホールで変化の乏しい砂と芦原のコース。
・甲南GCは諸々便利だが6ホールしかない練習場的ショートコース。
という厳しい見方もされており、ゴルファー達の熱意は関東に負けていないものの、コース環境については遅れを取っているという状況であった。

この状況に加え、広岡を始めとする大阪実業家財界有志らは、遠出をしなくてよい場所に18ホールのキチンとしたコースを創ろうと1922年末から画策し、大阪北部茨木の里山に用地を選び、翌1923年春に母体として先に結成した土地組合による用地契約を経て茨木カンツリー倶楽部が結成され、同年12月13日、文部省から社団法人として設立認可を受けている。

宮本が広岡に雇われていた時期は同倶楽部の用地契約~造成工事が行われていた頃で、工事が進展するに至って平時彼の腕前を見ていた茨木CC発起人達が彼を倶楽部のキャディーマスター兼プロにしようと考え、主人である広岡を介してオファーをかけた。宮本の回想や半生記によると1924年12月初めの事であったという。
広岡によると自身が宮本を雇ってから彼のゴルフへの熱心さと長打が周囲の評判になっていて、前の主人で舞子CCキャプテンの南郷や室谷藤七(第一回関西Am勝者)や鈴木岩蔵(帝人初代社長)等が広岡に宮本の良き後援者となって彼の天分を開花させる様に助言をするなど注目をしており。茨木CC開設の際も、発起人一同が広岡に宮本がキャディーマスターの業務に着くよう、そしてその為に必要な一切の修業をさせる様に懇請されたので、自身がキャディコミッティの役職を引き受け、宮本への窓口になったと回想している。

※当時関西にプロ及び職業ゴルファーは7~8人居たが、倶楽部に所属している者達の他は年が若かったり、クラブ修理製作等の事務スキルは良いがプレー技術はそこまで行かない者達と、日本に長期滞在し、茨木を設計したスコットランド人プロのダヴィッド・フードが居るという状況であった。
前者達は兎も角として、フードは世界を渡り歩きオセアニアのプロゴルフ界に大きく関わる等、キャリアも豊富で選ばれるだけの物を持っていたが、彼がいつ迄居るか判らない事や、当時のプロのレッスン代高騰の要因にもなっていたので、それを避けて発起人一同がよく見知っている宮本が選ばれたのは至当と云うべきか。

宮本本人は偉い人たち相手の仕事が自分に務まるのだろうか…と考え断るも、再び要請が有りまた断る、するとまた…というやり取りが数度続いたが、広岡の『解らなければ皆で業務の仕方を教える』という説得と、すぐ上の兄の『お前がやりたければやればいいんじゃないか?』という“至極気楽な”勧めで拝命し、その翌月から茨木CCの従業員として就職した。

その後は茨木CCの開場に備えて、プロ第一号福井覚治の下で下宿(1週間から四ヵ月まで数説の回想がある)をしながら休日は舞子CC、平日は福井宅傍の甲南GCで事務、そしてクラブ修理製造技術を学び、また、京都などの室内練習場に福井と共に定期的に出張し、レッスンの実地研修をしている。

福井は神戸GCの佐藤満同様国内のゴルフクラブ製造におけるパイオニアで、苦労しながら独自に工具を考案し、設備を整えた工房を自宅に持ち甥の村木章(後日本プロ勝者)や越道政吉、津田義三良(後クラブメーカーとして独立)らがアシスタントとして作業を手伝い、熱心なゴルファー達が入れ代わり立ち代わり修理調整の注文や満足の品を求めて出入する盛況ぶりで、宮本は技術を教わると共に、知己である佐藤の工房にパーツを分けてもらうお使いをしたり、暇なときは皆でプレーの腕を磨いていた。

宮本本人はこの修業時代について“福井からクラブ造りの技術を教わった事が後にとても役に立った”と云う一方、“プレーの方は技量が同じ位で教わらなかった”と回想しているが、
 半生記ではクラブ造りなどは手先の器用なもの同士、手伝いというより共同で研究と工夫をしていたとある一方、プレーの方は皆より飛ばすが、スコアのまとめ方は越道、村木に敵わなかった事が書かれている。(著者の伊藤は甲南GCの発足にも関わっており、福井とも深い付き合いがあった)
この違いは宮本の福井に関する恩義(福井の死後彼の息子達にクラブ造りを教えている)と、彼の負けず嫌いの性格が表れているようで興味深い。

その後コースの開場が近づいた事から福井の許から茨木に戻り、広岡邸に下宿しながら(広岡さんの書生になった。とする記述はこの様な所からだろう)キャディ育成等の開場準備にあたり、1925年5月10日の茨木CC開場とともにキャディーマスター兼プロとして彼の60年にわたる長いプロ生活が始まった。

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さて、プロになる前の宮本の経歴をざっと記してみたが、ご覧のとおり16~20歳頃の宮本はゴルフを仕事にしていたわけではなく、倶楽部メンバーでもないがコースに出入りをしてプレーをしていた。(また、南郷や広岡の下で働いていた時も別荘番や茶店等が正業ではある)
 この事について伊藤長蔵は宮本の半生記の中で、英国にいた『Artisan Golfer(労働者ゴルファー)』と同じような存在だ。と書いている

労働者ゴルファーとは、1820~30年頃の英国でゴルフ倶楽部の発展・発達と共に発生した概念で、肉体労働者や職工、職業ゴルファーら、当時のゴルフ倶楽部の会員であった“紳士”の階級ではないゴルファー達の総称であった。(その後1900年前後からビジネスマン階級が第三勢力として登場する)
彼らは共有地にゴルフ場の在る地域では、自分達の倶楽部を持って居たが、そのような場所が無く、ゴルフ倶楽部がコースを持っている地域では、会員ではないが黙認以上公認未満の存在としてコースに入りプレーをさせて貰っていた。宮本の事例は後者に該当するだろう。
(注=ゴルフ倶楽部所有のコースの場合でも、通常は子倶楽部を組織し、親倶楽部へ費用支払いによってコースの利用契約を結ぶようになっている。が、伊藤が1925年に訪英した際は上記のようなゴルファーが相当数存在していたそうで、同行の大谷光明も彼らの謙虚ないじらしい様に大きな感銘を受けたらしく、帰国直後から度々雑誌で『こう云った地元民のゴルファーを国内でも増やしたい』と述べている)

ちなみに労働者ゴルファーは、全英OPで活躍する者は古くからいたがアマチュア競技は締め出される事があった。しかし全英Amの発足とともにアマチュア資格が明文化されてからは資格を順守していれば、労働者倶楽部所属者も各種アマチュア選手権にも参加できた。
尤も諸経費や休暇の問題で“紳士階級”のゴルファーに比べ大競技は地元開催の時しか出れない事が多く、活動の場も地元周辺のトーナメントが多かったが、全英Amで優勝や準決勝進出等活躍する者がおり、1925年まで事実上のスコットランドAmであったダンディー・テレグラフカップの第一回~第一次大戦後までの優勝者を見ると結構な数の労働者ゴルファーがいる。
また、1890~1920年代にかけて新世界に渡り全米OP・Amを始め大競技のチャンピオンになったり、現地のゴルフ発展の功労者として歴史に名を刻んだ者や、エイブ・ミッチェルの様に労働者アマチュアとして活躍後、プロとして英国の二つの大戦の間のゴルフ界を引張った人物もいるなど、プレーヤーの名前のみが表記され易い正史には隠れがちだが、労働者ゴルファーにはそのような厚い選手層があったのである。

(なお、当時のアマチュア規定では16歳を過ぎてキャディを始めとするゴルフの仕事でお金を貰うとアマチュア資格が無くなる為、宮本が南郷や広岡のゴルフのお供をしていた頃はアマチュア資格を喪失していた可能性が高く、当時の彼はアマチュアでも職業ゴルファーでもない存在であったやも知れない。が当時は職業ゴルファーをどう見るかも曖昧で在ったので、その様な事に注意を払う者が居たかどうか)

話しが少しズレてしまったが、宮本がプロに成るまでの経歴は当時のゴルフ界にとって異質な存在であり、当時の神戸GCを取り巻く環境とともに、日本のゴルフ史・プロゴルフ史における一つのサンプルだと筆者は思う。
伊藤も半生記で触れているが、ゴルフの山といえる六甲とそこに生まれた宮本。という環境故に彼がキャディをしなくてもゴルフの活動を出来た事もあるが、他の場所ではどうであったか。

同じ関西の横屋や鳴尾(海岸)などのコースでも六甲ほどではないが、類似の例(宮本が労働者ゴルファー時代に鳴尾へ行った際に、コース造成や整備に関わっていた農家の岡田家の息子が着物をからげてプレーをしているのを目撃している。なお彼は後にグリーンキーパーとして父の補佐をし、1929年関西OPでは上位に入っている)があるので可能性は幾許か有ったろう。

一方日本の政財界のトップが集まっていた東京GCは地元には密着していたものの、会員の階層が関西とは違うためか当時キャディは完全に小僧扱いで、キャディらも行儀見習いとして来ていた面が有る事を考えれば、宮本のような事はまず無理である。
外国人会員がメインで六甲同様キャディトーナメントも毎年行っていたという横浜根岸のNRCGAならば可能性がありそうだが、競馬場の付属施設のため勝手な出入りは難しいだろう。そう考えると両倶楽部共もう一度コースで働く様にならなければ機会はないと見てよいか。

パブリックコースであった箱根仙石(1921まで会員制)や長崎の雲仙では出入りは他のコースより簡単だろうが、1920年代半ばを過ぎるまで両地ともゴルファーが少なかったので、道が開けない乃至大成出来なかったやも知れない。

加えて、宮本がキャディを始めた時に邦人ゴルファー達が増え出し、青年期には関西財界実業界の若手がゴルフを始めた事により同地のゴルフ界が第二発展期を迎え、またプロゴルファーという概念が生まれていた時期であった事も注目したい。
同じ六甲出身者で一世代先輩の越道・中上らの少年~青年期は、ゴルファーがほぼ外国人でコースも全国で数カ所しかなかった為、時節が合うまでプロになる機会が無く、彼らと同輩の天才少年横田留吉は家業のためにゴルフ界から去ってしまっている事を見れば、宮本は総てにおいて丁度よい時にちょうど良い所に生まれたと考えさせられる。

また、個人的に興味深いのが、あの全英OP6勝のハリー・ヴァードンもゴルフを仕事にしながらプロにはなっておらず、仕事の合間にプレーする『労働者ゴルファー』であり、プロになったのは20歳を過ぎてから。しかも彼は12~17歳までの5年間仕事が多忙であった為、プレーをする機会が年に数回しかなくゴルフからほとんど遠ざかっていた。という経歴の持ち主であった事に、宮本とある種の類似点を感じるのは筆者だけであろうか。

                             -了-
                         2020年3月18日~7月5日記

主な参考資料
・神戸ゴルフ倶楽部史  神戸ゴルフ倶楽部  1966
・神戸ゴルフ倶楽部100年の歩み 神戸ゴルフ倶楽部 2003
・茨木の思い出 広岡久右衛門 茨木カンツリー倶楽部 1958
・関西ゴルフの生い立ちと思い出 広岡久右衛門 凸版印刷株式会社 1977
・新版日本ゴルフ60年史 摂津茂和 ベースボールマガジン 1977
・日本のゴルフ史 西村貫一 雄松社 1995(復刻第二版)
・はるかなるフェアウェイ―日米ゴルフ物語― 上前淳一郎 角川文庫 1985
※同書は1981年講談社刊 日米ゴルフ三国志太平洋のフェアウェイの改定文庫版
・南郷三郎回想 南郷茂治 創叡巧房1986
・ゴルフ一筋宮本留吉回顧録 宮本留吉 ベースボールマガジン 1984 
・Golf Dom 1940年3~5月号 丘人(伊藤長蔵)『宮本の揺籃時代、宮本の修業時代(上~中)』
・Golf(報知新聞) 1954年4月号 『ゴルフ鼎談 日本ゴルフの創生期』
・ゴルフ春秋 1971年4月号 宮本留吉『ゴルフ今むかし 第七回 血みどろのインターロック-赤星六郎から教わる-』
・ゴルフ春秋 1971年6月号 宮本留吉『ゴルフ今むかし 第九回 よいクラブを求めて40年-クラブ造りあれこれ-』
・アサヒゴルフ(月刊)1981年4月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 英国遠征の折初めてネーム入りのセットクラブを注文』
・アサヒゴルフ(月刊)1981年5月号 宮本留吉『ゴルフ夜話 打ちやすいウッドクラブとは何か』
・ゴルフマガジン 1960年4~6月号 『座談会 二人だけの目撃者-宮本留吉氏を囲んでー』 (計3話)
・ゴルフマガジン 1961年10月号 だざいまちこ 『Machikoの選手訪問 宮本留吉氏の巻 歴史を持つゴルファー』










(この記事の著作権は松村信吾氏に所属します)