自己流「生活神道」考 | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

私のこれまでの人生のなかで圧倒的に


いじめを受けたのは日本人。
欺かれたのも日本人。
ダマされたのも日本人。
裏切られたのも日本人。


日本人と付き合う比率からいえば当然のことである。

公正さでいうと立場が逆の時もある。


だから日本は悪い国だとか日本人はダメだとかは思っていない。


なぜ、いじめるようになったのか、
なぜ、欺いたのか、
なぜ、騙すのか
なぜ、裏切るのか


その原因となる背景が必ず存在している。
また、どのように解釈し、解決してゆくのか人間の成長に不可欠なことだとも思っている。


同じように、なぜ日本人は、


なぜ、時間を守るのか、

なぜ、約束を守るのか、
なぜ、嘘をつくのをきらうのか、

まぜ、自分のことよりみんなのことを考えるのか。


という性格が強いことを考えれば、日本人の力を発揮しているときは、自分の意志がはっきり定まった場合であることもわかる。


腹が据わる、ともいう。


自分の意志ががそれほど強くなくても、先導してくれる大人におのずと従って見習って協調するならそのような環境を味わうことができる。


残念ながら適格な大人が近くにおらず人生経験が未熟のままだったり、まわりの雰囲気や相手にひきずられて自分の意見が定まらない場合、上記のような日本人に合うことになる。


優柔不断、精神薄弱。

自分の意志が定まらず他力本願。

無責任、責任転嫁。

エゴイスト。

結果的にそのような行動から自己弁護して嘘をつく。



意志の強そうな日本人でも常に意志が強いわけではなく、状況によってゆれたりする。
その誤差はゆらぎの範囲で許されている。


そのゆらぎの範囲は上記の人物にも当てはまり、それは受け手の許容範囲で補われる。


参考当ブログ:アイクとメイコウ(2)

http://ameblo.jp/ootadoragonsato/entry-11180882162.html



だから相手を追い詰めたりすることは性に合っていない。


現在、行き過ぎた行為をして死に至るような事件が頻繁に目につくようになったのは、日本的な考えを否定されて成長し、精神の高揚なく来たがために上記のような人間が蔓延する結果になったからではないか。



日本人は何に感動して来たのか。

まさに、


挨拶をする、
整理整頓をする。
時間を守る、

約束を守る、
嘘をつかない、

恩を忘れない、
自分のことよりみんなのことを考える

等々、


日々の日常であたりまえのことである。


毎日の鍛錬は日常生活にあり、それが日本人の人格を形成していった。

いつのころかそれを「生活神道」といった。


インターネットで調べようとしても出てこないから、死語になったか、空耳だったのか、局地的に言われたことだったのか。


日常生活がカミへのミチなのであって、鍛錬の場である。


宗教に入信したからといってカミになるわけでなく、迷える子羊のままである。

生活神道の神は一神教でいうような神とは違う。


意志を強化すれば神通力へと通じるだろう。

正しく生活することが人々の関心であって、創意工夫がなされ、文化もまた競い合って育てていった。


ものづくりが発達し、職人の腕があがり達人級になれば神業とも呼んだ。

だから新しい考えが入ってきたとき、新しいものを生活に取り入れ合うものに改造していけたのだ。


今、日本的でない考えがたくさん入ってきている。


政界、宗教界、学界、金融界、農業界、工業界、教育界、栄養・医学界、芸能界、軍隊、マンガ・アニメ、芸術界、などなど、あらゆる生活環境に新しい考えが無防備に、個人個人に直接入ってくる。


よりお金のあるもの、より知識のあるもの、システムを動かせるもの、力のあるものが格差を生み優位とされ、いろいろな要素が寄り集まって調和のとれた社会を形成することは無視される。


意志の弱い人間が、いかなる力を持とうとも、目先の便利な、安易なフィーリングにあった方になびいてしまえば不幸な事件を予見することも知らず邁進する。


精神薄弱は、何が間違いなのかもわからない。


意志も薄弱なので間違いと認められない。


意志の強い人間はそれを新しく改造できるのか?■