漢音ナマリ・呉音ナマリ(2) | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

元暦・萬葉集(巻の一) 
苗代清太郎
昭和44年


西暦三八四年南鮮に上陸した仏教が欽明天皇の十三年(五五二)初めて日本にやって来た。


これより先の欽明二年(五四一)の条に・・・第一回輸入の苗代仮名には名前がなかったので、当時は「古字」と云っていた。


差し当たり「呉音、呉音ナマリ」は「新字」と見るのが正しいことは既に述べた。


新字の文字ヨミが百済音に多いのは、南鮮が呉音系の読み方を使っていた事実を証明する。


そのために日本で初めの頃に出来た寺でも飛鳥寺(あすかでら)、久米寺(くめでら)、長谷寺(はせでら)などは「完全な呉音系、呉音ナマリ」であって、漢音系ヨミではない。


経典や寺の文字ヨミ(百済音)から見ても北鮮を経て、日本に仏教が渡来しなかったことが判明する。


従って、南都七宗の経典も呉音系のヨミ方で「日本への文字輸入」の経路と時代を直接知る手がかりもあった。


初め中国から北鮮を経てやって来た文字も皇后神功以来、南鮮との交易が盛んになるに従って、韓人と共に呉音、呉音ナマリが、ワンサと日本にやってきた。


技術家、学者、医者、僧侶などの往来は殊に盛んとなり、やがて呉音系がだんだん苗代仮名の文字ヨミの主座につく時代がやって来た。それが古事記(和銅五年)以後である。


(225~226頁)



積極的だった漢の武帝の朝鮮経営は、持てる漢文化をしげなく楽浪政権の存立に利用した。


余勢をかつて一衣帯水(いちいたいすい)の海を渡って北九州にその勢力を延ばした。


それを一世紀末とも云はれる時代に出来た前漢書に「楽浪の海中に倭人あり、分れて百余国の小国をなす。歳時以て来り献見す」といふ簡単な記録が見える。


更に後漢書(五世紀中葉の作)では、中元二年(五七)に奴から朝貢したので光武帝が「漢委奴国王(かんのいのくに)に金印を与えたとある。


金印の「委奴国」の委は、漢音はイ。

奴は漢音ド。呉音ヌであることは既に詳しい。


この頃の漢人が「奴をヌ」と発音していると「委奴をイヌ」と読む。


よしんば委奴(いぬ)と発音していなくとも匈奴をフンヌと読ませていた教育からみて「委奴をイヌ」と読ませる教育が正しい。


なほ委奴とは「奴にまかす、子分(輩下)にまかす」と云ふ漢字のイミであるから、この金印を「漢委倭国(かんのいぬのくに)」と読むのが正しい文字ヨミである。


無理にも委奴国を「ヌのナの国」とは読めない。


更に日本人は漢音呉音には関係なく苗代仮名で「委奴をイヌ」と読むから、漢委奴国を「漢の犬の国」と読んでも、決して理屈に合はない読み方ではない。


漢字教育すれば「漢の委奴(ぬな)の国」と読ませることは、学問的には誤った読み方であった。


従来は漢音で「漢の犬の国」と教育することで困ることが出て来るので、「委奴・犬」と読ませなかった。

・……


この「委奴国」と云ふ漢人の傀儡政府のイミが、今日で云ふ「犬・イヌ」を、警察犬、誰々の犬〈スパイ〉だから注意せよと、使はれるやうになり、常にシッ尾をふって後についてくる「動物の犬」に結びついて、飼ひ犬に手をかまれる。


などと云ふやうになったやうだ。


いづれにしても「漢の犬の国」と云ふ後漢書を採用し、今日の日本の教育者は漢字からくる「神話・漫談」を大切にしているから、正しい日本の建国を伝へる学問としては、真面目に研究出来なくなった。


中国の文献では四隣の国を見る目は、すべて野蛮用語が常に使はれる。


〈226~227頁〉


[注]「苗代仮名」とあるのは、苗代清太郎が発見した「やまとことば」。(akazukin)