漢音ナマリ、呉音ナマリ | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

苗代清太郎は、「やまとことば」を「苗代仮名、苗代読み」でもって記・紀・萬を再検証していかれた。


記は、古事記であり、


紀は、日本書紀のことである。
日本書紀と言われているのもは、レ点を無視してそのまま読んだためで、本来はレ点がついていたから、「日本紀を書く」という読みだったそうだ。「日本紀」は「やまとこよみ」と苗代読みではいう。


萬は、萬葉集のことで、苗代読みでは「よろずよのため」になる。


このように、以下、「苗代仮名、苗代読み」と出てきたら、それは、「苗代式やまとことば」と解釈して区別をつけていただきたい。


元暦・萬葉集(巻の一) 
苗代清太郎
昭和44年

から引用。


……「後漢書や魏志倭人伝」の政策年代を調べたい。


後漢書は応神天皇の十六年に後れること百五十年の五世紀の中ごろの作。


魏志倭人伝は西暦二九七年晋の陳述(ちんじゅつ)の撰で、王仁阿直岐(わに・あちき)の来朝した西紀二八四年より七年後の応神天皇の二十二年の作である。


日本人が呉音系の吏読(第二苗代仮名)を使ひながら、呉音系のヨミ方を何時から使ひ出したかの研究を怠っては学問が進歩しない。


のみならず日本人は初めて呉音系の吏読(りとう)を王仁から学んだ年代が二八四年であることに気がつくと、七年後の二九七年に中国で魏志倭人伝が書かれていても、年代からみて中国の文献からの日本古代史は、何の参考にもなるまい。


まして三国史なるものの性格を知ると実に不真面目な用字使ひが多いので、物語りではない。更に之等の中国文献の制作年代から考へると、中国書の採用は「記の序文」を書きかへなければ採用出来ない。


何にしても「紀、萬、記」を国宝の原文ソノママ読める時代が本書に依って復活すると[注]、日本人の歴史観が中国の文献によって大きく狂っていたことが、上記の年表からハッキリ納得がゆく。


四、五百萬人を抱へた大人口の日本社会が、聞きなれない「中国書の五人の倭王」によって治められたと云ふ教育は史実からみて、之は中国人からみた「オトギ噺」のやうだ。

(218~219頁)


[引用者注]本書に依って復活すると……苗代清太郎著作文献のこと。


さて以上の如く日中の文献が対照できるのも、中国文献の戸籍調べが出来上がったからである。


一応戸籍調べを述べる必要があるので次を続けたい。


中国は漢以来、歴代の王朝は唐の時代まで国運をかけて、楽浪政権を死守したが、その理由は黄金の魅力にあったやうだ。


虎視眈眈(こしたんたん)常に韓民族の独立運動を沮止せんと、大軍を朝鮮におくっていた。


殆んどの王朝が、その為の財政支出による失敗は、各王朝の政権交代を早めた原因となっていたようだ。


朝鮮人の朝鮮奪還は仁徳天皇の元年(三一三)で、この年楽浪政府は亡びる。


Bc一〇八年から三一三年朝鮮が独立するまで、凡そ四二〇年の中国支配に終止符を打った。


初め朝鮮は漢音系の漢人に治められていたが、独立運動が激しくなると共に、呉音系の上海付近の中国人と接触、支援を求めた。


その為に南鮮には呉音系の吏読(りとう)ヨミが発達した。


それが西紀二八四年に来朝した阿直岐(あちき)の文字ヨミは「呉音、呉音ナマリ」の吏読である。


初めの苗代仮名は漢音、漢音ナマリのみであった。


阿直岐から聞かされた文字ヨミは、「呉音、呉音ナマリ」の吏読であったので聞きなれない「文字ヨミ」をする客人阿直岐に、応神天皇は、……紀の応神十五年(二八四)秋八月の条に書く。


[引用者注]……読めないから読み方を教えてくれと書き送ったようだ。


そこで翌年の春二月王仁(わに)の来朝となった。


皇子菟道稚郎子(うぢのわきいらつこ)は王仁に師事され、呉音、呉音ナマリを学ばれた。自来「漢音ナマリ・呉音ナマリ」の文字ヨミする苗代仮名が、混じりあって普及されたやうだ。

(225頁)