「邪馬壱(台)国」の漢字のイミ | akazukinのブログ

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「日本史のいわゆる「非常時」における「抵抗の精神」とは真理追求の精神、科学的精神に他ならない」野々村一雄(満鉄調査部員)

元暦・萬葉集(巻の一) 
苗代清太郎
昭和44年


それでは終戦後日本人に騒がれた魏志倭人伝の「邪馬壱(台)国」を漢字のイミで紹介したい。


時には邪馬台国とも書くやうだが、本書は最も古いと云はれる紹興本の「邪馬壱国」に依る。


漢字のイミで「倭人の倭」は「小さい」と云ふよりも、日本人は「可愛いゝ、スナホナ」といふイミで、好んで使った。

ところが「邪馬壱国」という漢字は、歓迎しない中国語であるから、どこにも使はない。


それは漢字の「邪はヨコシマ、馬はアテ馬、馬脚の馬、壱はハジメ」といふイミがあった。


そこで中国人作者は「日本に初めて出来たニセ政府」といふイミで日本の国に初めて生れた「偽政権樹立」を伝へたのである。


紀や記が「邪馬壱国」を採り上げて書かなかった。


ニセ政権の発表を控へたのは当然なことである。だから景行朝には何回か熊襲政権征伐が行はれた。


日本武尊の熊襲征伐で「偽せ政権」は壊滅した。


之が景行天皇の廿七年(九七)である。


日本紀の川上梟師を「カワカミのトス」と和語ヨミする。川上(かはかみ)とは、「萬一、№22』で説明する如く、


①昔から、
②川の上流、
③土地の指導者


など三ツも四ツものイミを抱へた言霊である。

すると、川上とは熊襲の総大将と云ふイミ。


梟師(とす)とは、


①早くから、
②今日の佐賀県鳥栖地方


と云ふ複数のイミで、鳥栖地方の豪族・川上梟師を指す。


さて日本武尊は豪族トスが日本で初めて「ニセ政府・傀儡政府」を作って反旗を翻したので、現地に乗り込み豪族トスを殺したので一時は平静になった。


日本紀によると日本武尊は約三ヶ月の滞在で、出雲を廻り帰京(奈良)された。


大将トスの死後その夫人「ヒミコ」が子供や郎党を連れて難をのがれ、今日の福岡県の南部甘木市周辺で余生を送った(倭人伝による)。


男子がなかったヒミコの死後、まもなく「邪馬壱国・ニセ政権」は崩壊した。


(221~222頁)



川上(昔から)トスは鳥栖地方の支配権を握っていたので、首領トスを亡ぼしても、その一族郎党を全部平定したのではない。


僅か三ヶ月位の日本武尊の滞在では不可能であった。


ヒミコの死後は部下の間に勢力の不均衡がおこり、各地には残党の割拠がはじまった(倭人伝)。


日本紀を苗代仮名でヨミ、なほ倭人伝を参考とすれば、立派な歴史的事実が結びつく。


然も之等の残党がまた勢力を「ぶり返し」てきたので、日本武尊の御子仲哀天皇の九州征伐(一九六)になり、歴史は皇后神功時代へと移る。詳しくは日本紀や古事記の仲哀・神功の段にある。


(222頁)



しかも卑弥呼といふ漢字の意味を考へると、


卑はイヤシイ。
弥は弥次、弥次馬の弥で、

女王である卑弥呼を漢字から見て「真面目を表わすイミ」では受け取れない。


中国人は自分の国を「中華」と云ふ意味の「漢字の使ひ方」から考へての作意を見れば、何としても人間を人間として取り扱っていた記録ではない「漢の犬の国」にフサワシイ用字法である。


今まで紀記を漢字とするから「神話、伝説」にされたが、ひるがへって両書を何れおとらぬ「犬の国、鬼の国」の噺であった。


たとへ文部省が日本の古代史の説明は、後漢書や倭人伝を参考にせよと司令しても、中国人の漢字の意味では、「中国のオトギ噺になるから」と一蹴するだけの学問を身につけたい。


さうした自覚が「言霊と漢字」とを区別する人麿や憶良が絶叫した言霊(日本語)教育であり、学問である。


(230~231頁)

[注]「苗代仮名」とあるのは、苗代清太郎が発見した「やまとことば」。

  「日本紀」は、苗代ヨミで読んだ「日本書紀」(akazukin)