對馬は現在の対馬の旧字体です。日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島で、島全域が対馬市の1島1市体制です。島の面積は日本第10位になります。島内人口は3万470人です。(2019年9月現在)。

 

 主島は対馬島(つしまじま、つしまとう)で、このほか属島として5つの有人島(海粟島、泊島、赤島、沖ノ島、島山島)と102もの無人島があります。この対馬島と属島をまとめて一般的な表現として「対馬」と呼ぶことが多いようです。古くは対馬国(つしまのくに)や対州(たいしゅう)、また『日本書紀』において、対馬島(つしま。3文字合わせてこう読むのが書紀古訓での伝統)と記述されていたようです。

 

 地理的に朝鮮半島に近いため、古くからユーラシア大陸と日本列島の文物が往来し、日本にとっては大陸との文化的・経済的交流の窓口の役割を果たしてきました。現在は韓国からの観光客が増加していて、日本の海釣りの名所として知られ、島内の至る所にハングルが併記された標識や案内を見ることができます。なお、韓国における対馬の呼称は、日本語読みに準じた「쓰시마섬」と、朝鮮語読みです「대마도(漢字:對馬島)」の2種類が存在します。

 

 長崎県管轄になったあとの対馬には厳原支庁が置かれましたが、明治19年には対馬島庁と改められました。明治22年4月1日に長崎県内において市制・町村制が施行されましたが、対馬はこの対象から除外されました。対馬においては明治41年4月1日に施行され、上県郡に峰、仁田、佐須奈、豊崎、琴の5村、下県郡には厳原町のほか、与良、佐須、鶏知、竹敷、船越、仁位、奴加岳の1町7村が発足。明治45年に厳原町の一部と与良村を久田・豆酘村の2村に分割し、大正8年に普通町村制が施行されました。対馬島庁は、1926年(大正15年)には対馬支庁に改称されています。なお、明治38年には上下県郡総町村立の対馬中学校(現在の長崎県立対馬高等学校)が島内初の中学校として創立されました。

 

 この切手の消印は市制・町村制が施行されて、20年後のもののようです。そう考えると、この局印は対馬の歴史が凝縮されたものが表現されていて、歴史的な消印ではないかと自ら自負するものです。