外の世界は   77歳女性
もともと家の中で過ごすのが好きだったが、昨年から外出派になった。
北風が冷たい日であっても、外に出て色々な人と話をすると楽しく、温かな気持ちになるからだ。
先日、つえを手に大きなバッグを背負う90歳の女性と出会った。
「重いのでは」と尋ねると、中身を見せてくれた。
お茶入りのポットやおにぎり、カッパ、折りたたみ傘、カーディガンが詰められ驚いた。
待ち時間に飲食したり、天候の変化に対応できるように準備しているとか。
・・・外出を楽しむための一石二鳥の知恵と教えられた。
外に出ると、刺激を受ける人がたくさんいる。
外の世界は原動力の倉庫のようなもの。
今は一万歩歩いて、出会った人から元気をいただいたり、教えをいただく。
スニーカーのヒモをしっかり結んで、今日も出かけよう。

 

人も自然も…みんな〜すべてが師であり、教えてくれます。

 

少し晴れ

 

山路歩き 亡き母を思い出す    80代男性
亡き母の生家は山深い里にある。
生家が近付くにつれ、山路は曲りくねり、今の時期は落ち葉が深く積もっている。
今は近くをバイパスが通り、車で行けるのだが、昔は歩いて向かったものだ。
懐かしくなって、1人で山路をたどってみた。
一歩踏みしめるたびに、落ち葉がカサコソと音を立てる。

幼い頃、母に遅れまいと、一生懸命に落ち葉を踏んで歩いた記憶がよみがえった。
私が生まれて間もなく父は出征し、母は祖父母と野良仕事に励みながら私を育ててくれた。
そんな母にとって、生家に帰れる正月が、ゆっくりと骨休めのできる唯一の楽しみだったらしい。
1週間ほどゆっくりと滞在するのだが、生家を離れる時の母の足取りは重かったように思う。

終戦になっても父は帰らず、母は寡婦を貫き通した。
今になって思うと、母は私のために生き抜いてくれたのだろう。
当時と少しも変わらない山路は、黙って私を迎えてくれた。
人の気配が珍しいのか、モズが高らかに鳴く冬の午後だった。


僕の母には二人の母がいた。
産みの親と育ての親…正月とお盆は、母に連れられ訪れていた。
産みの親の里は、山里深い山村でバスで行く…育ての親は街でお店をやっていた。
いずれも、お小遣いをもらっていた(笑)


娘時代は知らないが…父と恋愛で結婚したと聞く。
それこそ、貧しく共働き…苦労の連続・・・
ようやく…一息つけるとき…父が事故で死亡。
ある日の夕食時…「父ちゃんが生きていたら…家は貧乏でもよかった」と声を殺してむせび泣きしていた。
僕は中学2年…普通の中学生を楽しんでいたが、地元の高校…と夢が消えた。
・・・
そこからが、自身の転換点のだったと思う。
高校、大学とラグビーが好きだったが色々なスポーツなんでもだった。
武道もマラソンも短距離も球技も・・・(V)


色々なことが数多くあったが…就職・仕事・趣味・・・順調だったのだろう…‼


お盆、正月と母の実家を訪れた子供時代を思い出す…。
本年8月、母の7回忌だ・・・。
今年は帰省し、墓参りをしたいと思っている。