ツルツル路面…走行中、停まろうとブレーキ・・・

ポンピングブレーキでないと…停まりません。

「ガガガ~ガガガ~」と滑っていきます(V)

 

千葉修司「言葉相」
「人にバカにされるほどの志を持つ」
大成する人は、そうでない人とは・・違う何かを持っている。
自分の「志・夢」です…たとえ失敗しても他人には何の関係もありません。

 

 

台湾有事に嵌る日本、逃げる韓国

「台湾有事は、日本の有事であり、日米同盟の有事であるという安倍晋三元首相の言葉」

戦争回避の外交は不可能

「韓国と北朝鮮は一体で、中国と長い国境線を有する。古来中国との間で戦いが繰り返され、属国になった時代もある。対中関係の安定こそが、我々の外交の最優先課題。日本は元寇の時以外中国に攻撃されたことはないし、占領されたこともない。太平洋戦争に負けたが、占領したのは米国だった。その後、日本は米国に頼り、今日に至った。米国は日本を信頼しているが、韓国のことは本当は信頼していない。だから韓国は米国に対して厳しい対応ができる。米国は韓国はそういう国だと理解しているから裏切られたとは感じない。韓国は米韓関係はそういうものだと割り切って外交を組み立てる。一方、日本は米国に無条件で忠誠を誓ってきた。今更その信頼を裏切ることは出来ず、米国が戦う時日本は逃げられない」

 

鹿児島の日本一長い足湯から国道へ(右が僕の故郷)

 

一年前の記事

僕が知る「日本とトルコ」の関係下記の通りですが、昨年12月「銅像になった…ニッホン人」という番組がありました。

そして先日、その地に公園設置と・・・。
大分県出身の宮崎淳さんです…。

 
エルトゥールル号遭難事件
1890年に軍艦エルトゥールルが和歌山県串本町沖で遭難したとき、住民が総出で救助と介抱に当たった。
住民も蓄えが僅かだったが、非常食や衣類を提供し献身的に教護。
行方不明者587名
という大惨事でしたが、住民のおかげで69名の方が生還することができた。
これが一つ
 
義捐金
この事件を聞いた明治天皇が心を痛め可能な限り援助を行うように指示。
多くの義捐金や弔慰金が寄せられた。
このキャンペーンを支えたのが山田寅次郎さん、義捐金を携えてオスマン帝国にわたる・・・。
これが一つ
 
日露戦争の日本海海戦勝利
大国のロシアにアジアの小さな新進国が勝てるわけがないというのが世界各国の見方でした。
しかし、東郷平八郎率いる連合艦隊がバルチック艦隊を撃沈し海戦史上最も圧倒的とされる一方的な勝利を掴む。
これに歓喜したのが常にロシアからの脅威に曝されていたトルコです。
これが一つ
 
イラン・イラク戦争時のトルコからの恩返し
1985年3月、サダム・フセインは「今から40時間以降イラン上空を飛ぶ航空機はいかなる国の民間航空機であろうと撃墜する」という布告に対して、各国は救援機を出し、自国へ退避させましたが、日本だけ素早い決定ができなかったため、216名の日本人が空港に取り残されてしまいました。
イラン大使館の大使はトルコ大使館の大使に窮状を訴えます。
トルコがタイムリミットの意時間15分前にトルコ領空へ日本人全員を退避させてくれました。
トルコ大使はこう言ったそうです「あの時の恩を返す時が来た」(エルトゥールル号)
これが一つ
 
「友好の道」
イスタンブールの通りに、旧日本軍・津村諭吉中佐の名前が冠される。
約100年前、苦難の末にトルコ軍人捕虜をロシアから帰還させた人物。
トルコ兵1020人を解放しトルコに送還する任務に就いた。
「平明丸」で輸送中エーゲ海でギリシャに拿捕されたが、トルコ兵の引き渡し要求を拒否し、食糧を分け合いながら船内にとどまって抵抗。
無事、トルコ兵を母国に到着させた。
日本とトルコの友好の新たな象徴にしたいそうです。
これが一つ

 

「宮崎淳」トルコで銅像に…
2011年3月、東日本大震災でボランティア活動をしていた宮崎さんは、海外からの多くの救援隊を目の当たりにして…炊き出しの配食活動をしながら、トルコの救援隊が子供の手を握り「大丈夫僕たちが必ずお母さんを探すから…」と声をかけていた光景を見て感銘を受けたそうです。
半年後、県庁を辞めて「難民を助ける会」に所属し、機会があればトルコへ恩返ししたいと
 
2011年10月に「トルコ東部地震」が発生。
宮崎さんはトルコ派遣に志願して向かう…
各国から救護隊が派遣されていたけど被害の大きさで苦戦、
特に山間部は取り残された状態。
その、山間部に真っ先に向かったのが宮崎さん達
圧縮されたパンツや靴下を手渡したり…常に笑顔で接したそうです…
その時期は、犠牲祭(イスラム教徒のお祭り「羊や牛を捧げ神に祈り、家族で食べる」)であり、こんな状況であっても宮崎さんたちは、祭りを準備しふるまいました。
 
宗教を理解し尊重する心のこもった行為が…トルコで宮崎さんを知らないものはいなかったそうです。
さらに余震が続く最前線で活動していた宮崎さんでしたが11月9日当日の行動記録を整理している最中、余震により宿泊していたホテルが倒壊し瓦礫の下敷きとなる。
地元の消防が「宮崎…」と懸命の救助活動…
地元の方々が手に汗を握って祈っていました…
発見されましたが…41歳で帰らぬ人となりました。
 
11月12日外国人で初めての国葬級の扱いで日本へ搬送・・・
当時の大統領も宮崎さんへ自己犠牲の精神を称えた哀悼の手紙を読みました…
 
トルコの各地に宮崎さんの名前の施設や銅像が作られる・・・
トルコの人々のために献身的に行動した宮崎さん
現地の方々は「もし日本で同じことが起こったら、今度は自分が助けに行きたい」と話している。
銅像の前では、どなたも祈りを捧げていました。
 
日本も震災等においていろいろな国から受けた恩を忘れてはならないと思う。

Yahooニュース
ミヤザキ公園

 「地震でみんなが逃げ出したのに、遠い日本から手を差し伸べに来てくれた。私たちのことを知りもしないのに」。

ことし10月下旬に全面完成したワンのミヤザキ森林公園で、子連れの母エスメル・ウストゥンさん(24)は話した。

公園には宮崎さんの胸像がそびえ、地元ワン県の知事らが参加した開園式典が開かれていた。   

ワンでは2011年10月と11月に大きな地震があり、600人以上が死亡。宮崎さんはNPO「難民を助ける会」(東京)の職員として1回目の地震後に現地入りしたが、2回目の地震で宿泊先のホテルが崩壊、死亡した。

部屋の中で、机に座っている状態でがれきに埋まったという。

翌日の支援の準備をしていたのかもしれない。

遺体は国葬級  宮崎さんの死は、親日的なトルコ社会に大きな衝撃を与えた。

遺体は国葬級でトルコから日本に運ばれた。

その後、ワンだけでなく、最大都市イスタンブールや西部イズミルなどに宮崎さんの名を冠した公園や学校が造られた。
 大分市に住む宮崎さんの母、恵子さん(78)のもとにはトルコから多くの手紙や宮崎さんをしのぶ絵本が送られてきた。

ことし11月にはトルコの記者が取材に訪れた。

10年前に亡くなった日本人に、今もなお強い関心を持っている。

 

決して忘れない  海外で尊敬を集める日本人といえば、紛争下のアフガニスタンで医療や用水路建設に尽力した故中村哲さんや、ヒマラヤのブータンの食料事情を一変させ「農業の父」と呼ばれる故西岡京治さんらが浮かぶ。彼らのような半ば伝説的な人々と、現地で支援活動を始めたばかりだった宮崎さんはやや異なるが、なぜ語り継がれるのか。  

10年前、被災地ワン近郊のディベクドズ村に住む女性が、その回答につながる言葉を記者に語っていた。寒さが厳しい村は舗装道路もなく、極度の貧困の中にあったが、宮崎さんの支援で肉や食用油が届けられていた。

「日本がどれだけ豊かな国かわたしは知っています。そこを離れて、小さな村に助けに来てくれた。わたしたちは決して忘れません」