千葉修司「言葉相」
「健康はすべての分母・・」
「健康なくして何も成し得ない」

自分にとって健康と体力、絶対的に自信がある部分でした。
ここを崩され癌を患ったことに…後悔しかなかった。
副作用は強いし・・・常に、検査結果におびえていた…
ただ、覚悟はできていたし…なるようにしかならない…と何の心配もしてなかった。
3ヶ月に一回の検査と年一回のがんセンターへの通院になった。
自身を心配したことに、今となっては苦笑い…
転移した…再発した・・・「なるようにしかならない」と思える。
全てを受け入れられる…「波乱万丈ドンと来い」
「天に与えられた命…世の為、人の為…最善を尽くす」そう誓う(V)

 

鹿児島県福山 「黒酢のかめ」

 

冬の散歩道  70歳男性(福岡)

夕暮れ、自宅近くの小高い公園を歩くことをほぼ日課としている。

周囲に植わった木々、草花が春夏秋冬それぞれの季節に応じた表情を見せてくれ、一人歩きもそれなりに「自然と対話」しているようで楽しいものである。

この時期、日暮れが早い。

その一日の太陽の落ちる速さとまるで駆けっこしているような感じさえ受ける。

だが、それもいいものだ。

イチョウは裸木となっているが、陽春に、もっちりとした満開の桜を咲かせる木々には、真っ赤に染まった数葉が辛うじて枝に残っている。

冬枯れの中にけなげな生命を感じる。

やがて、冬至を迎えると、薄暗い夕暮れの中にそれら数葉も寂しげに枝から離れていく。

そして、それが腐葉土となり、そこから栄養分を得た樹木が花を咲かせることになる。

冬の夕暮れを一人歩くと、いずれの時期よりも「生命をつなぐ」ということに気づかされ、豊かな気持ちとなる。

 

なかなか趣のある方だと思う…同意見だが、北国は寒くて、そう感じる暇も歩く気にもならない(笑)

初冬の桜島

 

母の愛        60代女性
私が中学生のとき、両親が同時に病気になった。
母は口にこそ出さなかったが、暮らしは金銭的にも大変だと感じた。
私は働きながら自分で高校に行くから大丈夫、と言って故郷を後にした。
持ってきたのは、わずかな服と文房具のみだった。
最初の冬、母の手縫いのはんてんが届いた。
暖房のない部屋で、体を温めてくれる唯一のものだった。
離れて暮らす娘への、母の愛を感じた。

50数年前のことである。
ゆえに、擦り切れて着古しても捨てがたく、冬が来るたびに思い出しながらもずっとしまってあった。
子どもたちには、私のひつぎ入れてほしいと頼んである。
今年になって古い手紙の整理を始め、故郷を離れてからの手紙に1通ずつ目を通している。
母が私のはんてんを縫っていると、弟が「ねえちゃんには地味すぎないか」と声をかけた様子が書いてある手紙を見つけた。
寒さが増してきたので、はんてんを引っ張り出してほつれたところを直して着ようと思い立った。
さすがに外には着て行けそうにないが、母が丁寧に一針一針、娘の私に縫ってくれたもので今もしっかりしている。

母が亡くなって十数年、母の温かさも、はんてんの温かさも変わらない。
似合っているかな、お母さん。
ありがとう、あったかいよ。

 
 
お母さんの優しさと…家庭の事情を理解して…頑張ってきた娘さん・・・
昔のことかもしれないけど…性別、年齢は違ってもよくわかります。
70近くなって、その思い出を大切にして、子どもたちに死んだらはんてんを棺に入れてね・・・
貧しかったけど…暖かかった昔の家庭を見ているようです。
 
次から次と…自分のおもいと同じような投稿記事があり、嬉しくなります。
この気持ちは、子どもたちに孫たちに…あるいは一般的に伝えるべきことだと思います。
日本人の勤勉さ、誠実さ、優しさ…家庭における柱として組み立てて確立してほしいものです。

僕は、今でもアイロンをかけるし…針に糸を通して簡単な裁縫もできる…母に教えられたし、15歳で家を離れ違う進路を選んだから‼


雪が積もったり融けたり、凍えるような寒さが襲来したり・・・少し骨身にしみるかな(V)