皆様、おはようございます
桜水現実(オースイうつつ)です
身内の恥をさらすようですが
先日母から電話がかかってきて
二番目の兄と喧嘩をしたらしく
不満と怒りのエネルギーが(笑)
受話器の向こうからも伝わってきました
今、母は退院してきており
家でリハビリをしながら
頑張って生活しています
身体がなんかだるいと言う母に向かって
二番目の兄が一言
それは歳だから仕方ない
歳取ると皆そうなるんだから
と言うようなことを言ったらしいのです
まー、気にするな!
みたいな男子特有のさばさばした感じで
言ったらしいのですが、
いつになく母が怒りまくっておりました
ただ優しい言葉をかけて欲しかったんだね
私がそういうと母は黙り、
急にめそめそと泣き出しました
母の怒りの裏側には
自分が愛されていることを知りたいという
気持ちがあり、
またそれを確かめないと安心できない
恐れがあるのでしょう
そして自分が思ったような方法で
それを確かめたいと思ったのでしょう
その期待とは異なる兄の反応に
恐れが大きく反応したに違いありません
怒りの裏側には必ず恐れがあります
それを思うと反対に
兄の気持ちもわかるのです
兄は人一倍
母が居なくなってしまうことを
恐れています
優しい言葉をかけてあげたいけれど
自分の中で、
これは仕方のないことだ
そう思わないといけない
その気持ちが兄にわざとさばさばと
逆にさせてしまうのがわかります
歳をとって体力が落ちる
この事実はやっぱり仕方のない事です
母でなくても、私たちは知っています
でも物事を受け入れるという事は
事実そのものをさらけ出して
その事実そのものを知ることとは
少し違うのだと思うのです
その事実に対して
自分のポジティヴな解釈が加わったとき
言い方を変えると
そこに何らかのギフトを見出した時
「受け入れる」
と言う現象がやっと起きます
「事実」は解釈を得てこそ
「体験」となり得るのです
「受け入れ」が起こるために
なぜポジティヴな解釈でなくては
いけないかと言うと
人はネガティヴなものは受け入れない
そんな風にできているからだと思います
いいえ、それは違う
受け入れるしかないわ
私はそう思って受け入れている
そういう人もいると思いますが
それは「しかない」と思っている時点で
もう受け入れてはいません
暗い気持ちで何かを渋々やる時
それは「受け入れている」とは言えない
そう思います
「受け入れる」ことは
行動ではなく、ハートで起こるのです
☆
身体がしんどいけれど
自分のペースを考え直す機会だ、とか
歳は取ってこうなったけど
人に頼って喜びを知る機会だ、とか
事実ではなく体験の中に
なんらかのギフトを見出すことが
「やってられない」出来事に
「やってられるかもしれない」
と言う希望を見せます
兄の立場からいうと
いつかは居なくなってしまう
と言う恐れより
今居てくれてよかった
と言う幸せに
フォーカスをシフトすることが
受け入れるということかもしれません
誤解しないで頂きたいのですが
私はこのことを
そんなに簡単なことだとも思っていません
ですがそのままでは
人生がどこにも行きつけないことは
分かっています
かく言う私も
しょっちゅう母とはやり合います(笑)
偉そうなことは言えません
私も私なりの恐れと戦っています
ですが、やり合った後思うことがあります
これも母が元気な証拠かもしれない
だからその兄と母のやり合いの時間も
私は決して無駄ではないと思います
喧嘩であっても、何であっても
コミュニケーションをとったことには
変わりないからです
無関心よりはずっと温かい
コミュニケーションなのだと思います
人は決して自分に嘘をついたまま
気持ちよく生きていくことは出来ません
そして事実はそこにただ居るだけです
無表情で良し悪しも伝えません
この先どうなるかも教えてはくれません
私たちのその板挟みからの脱出は
ハートが自由であること
それにかかってきます
ハートでの解釈には
とことん自由が許されています
何もない部屋に居て
何もないと思うことも出来れば
いや、そもそも部屋がある
と思うことも出来ます
ハートのパワーが全開になった時
私たちは「受け入れる」ことが
出来るのでしょう
パワーをオンにするための秘訣は
ギフトを見つけること
理屈では見つけられても
なかなか納得できないギフトであっても
そこに少しでも感謝があれば、
見つけ続けることで
きっと物事の流れは変わるのだと思います
ギフトは「贈り物」を意味しますから
☆
宇宙の愛の流れに乗ることは
結局は自分と言う船を
受け入れていくことなのだと
感じている今日この頃です
自分と言う事実に対して
ポジティヴな解釈をして
受け入れていくことなのだと感じています
うつつ
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