皆様、おはようございます。
桜水現実(オースイうつつ)です。

先週の金曜日から福岡に帰省しています。
多くの方から今回の地震について、ご心配頂き、励ましのメッセージを頂きました。
本当ににありがとうございました。

かなりの揺れと余震の繰り返しがありましたが、
おかげさまで、母も私も無事で元気にしています。
母の里が熊本なので、心配でしたが、こちらもなんとか皆無事のようです。

今回の地震で亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。
また、被害に遭われた全ての方々のご無事と、一日も早い心身の回復を心からお祈り申し上げます。


今回の帰省は、もうずっと前に決まっていたことで、帰省の前日に地震のニュースを聞いた時、

私は「亡き父が母が一人で心細くないように計らってくれてたんだ」と思っていました。

でもこうしてたくさんの方々から、メッセージを頂いて、皆様が一斉に九州に向けて「祈り」を捧げて下さっていることがわかりました。

ニュースを目にした瞬間にきっと顔も知らない人たちに向けて、愛を向けていて、、、
 
家族や親類が居らっしゃる方々は、きっと普段通りの生活をしながらも心のどこかでずっと、一日中、、、愛を向けている。

それが祈りであり、癒しなのだ、と。

日本全国で、皆がこの地震のことを心に留めて無事を祈っている。

そんな風に、感じています。

祈りとは、そういうものだと感じています。

特に何々ヒーリングだとか、
ヒーリングエネルギーを送ります、だとか、、、
特別な何かが出来るとか、、、
それはもちろん良きことだけど、
そんなものに限られない。

人の心の純粋な部分から沸き起こる愛が癒しを伴う時、それは「祈りのエネルギー」なのだと感じます。

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母は、てっきり怖がっていると思っていたのですが、
とても元気で、大きな揺れの時には起きたものの、
携帯の警戒警報が鳴っても、いびきをかいて寝続けていました(笑)

朝起きたら、いつものようにちゃんと食べて、ニュースをみてため息をつきながらも、

日々の業務と「笑い」を淡々とこなしていました。

母は私と買い物に行くことが大好きで毎回楽しみにしてるのですが、
不謹慎かもしれませんが、
人が明らかに少ないデパートに一緒に出かけて、
親しい熊本出身の店員さんを元気付け、
他の店員さんの仕事を褒め上げ、
また、笑わせていました。

でも、あー、お母さんはさすがに強いなぁ、と思いながら、一緒に夕飯を食べていたとき、

母が唐突にぽつんと言いました。

「あんたは大丈夫。お母さんは安心してる」

それが、不謹慎なのですが、本当に遺言のように静かに響いて、私はえ?と聞き返しました。

母は、もうそのことは言わず、「お兄ちゃんのことは心配してるけど」と、笑いに落としました。
(兄のほうが余程社会的には「心配ない」立場なのですが…)

この地震のニュースがずっとずっと流れるなか、
母はやっぱり母なりに母の人生に向かい合っていたのだと思います。

うまく言えないのですが、変わらない日常のなかで、彼女も祈り続けていたのだと感じました。

笑っているときも、食べているときも、
ニュースをみているときはもちろん、、、
買い物で目先の楽しさに興じているときも、、

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人は想像を超えて「深い」と思います。

そして、真の「祈り」は本当に心の奥底の奥底で流れているものかもしれません。

愛は「深しい」と思います。
天文学的に「強い」と本当に思います。 

真の「癒し」には飾り気などなく、
気がついた時には、もうその仕事を全うしようと全てを包み込んでいます。

私は、この福岡への帰省で改めてそんなことを感じました。

心底感じました。


私の大好きなアランコーエンさんの言葉が浮かびました。

真のヒーラーは、身近な人をまず照らします。
人は皆生まれついてのヒーラーなのです。

そして、もう一つ。
「精霊の守り人」のなかで、女用心棒のバルサが言った言葉が浮かびました。

自分のために生きろ。
でも、誰かのために生きたいと思うなら、顔も知らない人たちのために生きろ。

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つらつらと書いた文章。
いつものように、読み返さないまま、アップします。

読んで頂き、ありがとうございます。


うつつ