皆様、こんにちは。
桜水現実です☆
先週の木曜ぐらいから、喉が痛くておかしいな、と思っていたら、
やはり風邪をひいてしまいました。
なんだか、風邪で寝込むなどと言うことが結構久しぶりで、自分で戸惑ってます。
仮病で寝込むことはありましたが(≧∇≦)
気合いだーっとは言いませんが、予防はちゃんとしていたつもりだったので。
昨日は、20時間ぐらい寝続け、汗をたくさん掻いたので、熱も下がりました。
熱が出ている目で、潤んだ天井を見ていると、いつも思い出す光景があります。
私は小さい頃、小児喘息を患っていました。
例えば、お友達と笑ってるうちに、喘息の発作を起こしたり、
縄跳びで遊んでるうちに、ゴホゴホと咳が止まらなくなったり。
そのあとは必ず家で横になるのですが、その時に見た実家の古い天井。
私が今見ている自分のマンションの天井とは違って、
古い木造の家独特の染みや汚れのある天井でした。
具合が悪くなって横になると、いつも思い出します。
そして、あの頃私はなんと強かったことか、と思うのです。
普段はまったく思い出しもしないのですが、
ああ、そうだ、喘息はこんなもんじゃなかったな、と。
息を吸っても吸っても苦しかったな、と。
あんな小さな身体でよく耐えてたな、と。
今でも母が、「ちゅうちゃ(注射)」と言って自分から腕を出していた幼い私の姿を語るときには、涙を浮かべます。
それに比べて、大人の私はなんと弱々しいことか…。
風邪をひいたぐらいで、なんとなく人生の終わりのような気分になったり、
お酒を美味しいと感じないことに絶望的な気持ちになったり…。
子供だった私は、まだ生きることも死ぬことも同じぐらい近い距離に居ました。
死ぬも生きるも同じように感じていました。
いまは、少し具合が悪くなると「死」と言うものを過剰に意識します。
それが怖いとか、辛いとかではなくて、
あー、人はいつかは死ぬのだ、と。
子供だった私は、咳がとまらなくても、大声を出せなくても、
早く元気になって縄跳びをまたするんだ!と思っていました。
少々辛くても、遊びに行くことへの楽しさのほうが何倍にも勝って、
母の制止も聞かず、こっそり遊びに行っていました。
それが当時の私にとっての生きる喜びだったのでしょう。
諦めを知らない私が居たと思います。
というより、「諦め」という概念そのものがなかったのだと思います。
死ぬことと、生きることをイコールのように捉えていたあの頃。
私はとても強かった。
無知が故の強さであっても、諦めを知らず、楽しむことにとことん貪欲に。
大人になることは、いろんなことを学んでいくことでもあると思います。
最近、またスピリチュアルを身近に感じることで、
死ぬことと生きることは、さほど変わらないかもしれない、と思えるようになりました。
そう思えるようになったから、なおさら、昔は強かったと思うのです。
小さな身体いっぱいに、希望の光を溢れさせて、前だけを見ていた私。
人生は、飽きるほど続いていくのだと信じ切っていた私。
入院中の患者さんが(実家は開業医でした)亡くなった翌朝、
「天国に行かれたんだよ」と言う言葉をまるのまま信じ切っていた私。
人は本当は、生まれた時にはもうスピリチュアルが何たるかを知っているのかもしれません。
大きくなるに連れて、いろいろな矛盾や諦め知って、
少しずつ手放してしまったスピリチュアルを、
私はいままた自分の力で取り戻そうとしているのかもしれません。
また強い私に戻るために。
読んでくださって、有難うございます☆
うつつ
