時々、いつの間にか消息を絶ってしまった人のことを思い出したりする。
小さい頃は、人との出会いがそんなに貴重だとは知らなかった。
転校して行ったあの子や
引っ越して行ったあの子や
それから、亡くなってしまったあの子や
無邪気に手を振ったあの瞬間が
こんな長い不在の始まりになるとは思ってなかった。
もしあの時、これが最後になるかもしれないと知っていたら、
私はもっとうまく、さよならを言えたかもしれない。
お人形遊びの傍らで、早く遊びに戻りたいと思う気持ちよりも、
さよならのほうが大切だ、なんて、あの頃は本当に知らなかった。
次の日に当たり前に遊んでいた
あの子がいなくなって初めて首を傾げて、
一週間後に、玄関になかなか現れない
あの子に気が付いて、
もしかしてほんとうに居ないのだと思い、
三週間後に、ものすごいさみしさに襲われて、
やっと不在の大きさに気がついた。
くすんくすん、と少し泣いて、
やっと納得して、一ヶ月後に不在にも慣れて行く。
人生はそれの繰り返し。
あんなに「ちゃんとしたさよなら」をしなかったことを悔いた
子供のころの「三週間後」があったのに、
私はいまでも同じことを繰り返している。
「じゃ、元気で。また」
それが最後になるなんて思わずに、
私は、また言いそびれている。
曖昧に手を振って歩き出しただけで、
結局、子供のときのまんま。
大人になっての一ヶ月後の「慣れ」はなかなかやって来ない。
さみしい思いはなかなか消えない。
大人は、子供よりも、素直に感情をぶつけていない。
だからなのかもしれない。
その場その場で両方泣き出すくらいの喧嘩をしたり、
その場その場のケーキひとつで仲直りしたり、
一緒に歌を歌っているうちに、なんとなく楽しくなったり、
お気に入りのおもちゃを貸してもらったぐらいで嬉しくて、
心を込めて「ありがとう」と言ったり…
大人の二人には、なかなかそんなことは起こらない。
そんなことは出来ない。
隣町へ引っ越したぐらいなのに
世界の果て、地球の裏側に行かれたぐらい遠く感じた子供の頃。
お父さんやお母さんに頼めば、すぐに連れて行ってもらえたのに。
大人になっての別れは、同じ街に住んでいても、もっと遠い。
地球の裏側、世界の果て。
そんなところより、もっと遠くなる。
ありありと思い出す姿や、
ハツラツとした声や、
含み笑いや、大笑い、
露骨に怒る顔や、ぶすっとした顔。
あまりにも心に近い分、
実体が遠すぎて、気が遠くなる。
だから、今伝えたいことは、今伝えるべきなのだ。
実体が目の前にあるうちに。
伝えなくてはいけないことは、ちゃんと伝えるべきだ。
ありがとう、でも
ごめんなさい、でも
楽しかった、でも
好きです、でも。
飾りのない言葉でいいのだから、
ちゃんと伝えて行くべきだ。
「じゃ、またね」
また、絶対に会えると信じ切っていた愚かな自分に
あの時の自分に私は言ってやりたい。
「絶対」と言うことは、未来には無いのだと。
それは、連絡するすべの有る無しには関係ない。
二人で目指す未来に、限りなく近い「絶対」をつけたいのなら、
あなたは、ちゃんと言葉にすべきなのだ、と。
ちゃんとお互いの「再会」を約束すべきなのだ、と。
ちゃんとお互いの気持ちを合わせておくべきなのだと。
大人は、さみしい生き物だ。
その上、別れは本当に突然やってくる。
出会いに慣れて、別れを忘れた頃にやってきたりする。
いろんな人間がいる。
仕事関係。友達関係。家族、親類。恋人。
誠意とは、その場その場を尽くしていくことではないか、と思う。
もう次はないのかもしれない。
そんな風に思う必要はないのかもしれないけど、
そんな風に思うぐらい、ちゃんと
「ありがとう」や、
「ごめんなさい」や
「楽しかった」や
「好きです」を伝えておけるように。
やり残した思いが出来るだけ少なくて済むように。
不在の淋しさが、出来るだけ少なくて済むように。
言い残した言葉を、都会の月に向かってつぶやかなくても済むように…。
うつつ
