スピリチュアルって言うと、


「あやしいー!もしかして、壺、もう買ったのー?」


とか言う人も居るけど、私には結構人生哲学を感じる分野である。


もっと簡単に言うと、「人が自然に生きるため」にある考え方だと思う。


もっともっと言うと、「人が生き易く生きるため」にある「一つの考え方」だと思う。


「いやー。スピリチュアルなんて、にわかに信じがたいねー」


と言うのも良し!


それは、その人がその考え方を持たなくても、生き易く生きていると言うことである。


でも、忌み嫌う必要もないではないか、と思う。


天使や、妖精やマーメイド。小人。アセンデットマスター・・・・


そう挙げていくと奇想天外に聞こえるけれど、ただ自分を見守ってくれる存在のことだ。


例えば・・・。


おじいちゃんが亡くなったとする。


それに関して、「おじいちゃんが見守ってくれているよ」と大人は孫に言う。


孫は、「うん!」と力強くうなずいて、それを真正面から信じる。


でも、そう言って孫を信じさせて安心させてあげた当の大人はどうだろう。


だいたいどれぐらいの大人が、それを本気で信じているだろうか・・・。


そして、どこかで「死んだらおしまい。なんもなくなる」って言ってる大人の胸にあるのは、


寂しさだけではなかろうか・・・。


父親が死んでしまった後、私も幾度となく自分に言い聞かせた。


「お父さんが見守ってくれているから、大丈夫。お父さんがずっと見てくれている」


でもね。やっぱりさみしいのである。

触れて触って、禿げ頭触って、枯れ枝のようになってたとしても細い腕や足に触って、ずっとずっと一緒に居たかったのである。


子どもではなく、もうおばさんであった私の心には、その「見守ってくれている」と言う言葉を言われれば言われるほど、余計に不在を意識して辛いことだってあった。


日々のいろいろな物事やちょっとした雲の形、偶然かもしれない共時性をもつ出来事に、


「あ、お父さんが助けてくれた」と本気で思うことが出来るようになったのは、ほんのこの頃だ。


そんな風にして彼が居なくなった世の中に「彼の愛」を見つけられるようになったのは、そういう考え方をしたほうが、私には生き易かったからだ。


それだけではない。とてもとても幸せな気持ちになれた。


気が付いたら、へぇー、こういうの、スピリッチュアルって言うんだ、って感じで。


逃げ?そうとも言えないのではないか、と思う。


何故なら、人は心の中では完全に自由であるけれど、裏を返すと、自分の心の中からどこへも逃げられないのも確かなのだ。


見えないものを信じるところから始まるスピリチュアルは、なるほど怪しい。


でも、怪しくてもいいではないか、と思う。


じゃ、何故人はお墓の前で手を合わせるのだろうか。


何故、お盆と言うしきたりがあるのだろうか。


そもそもお墓詣りに定期的に何故行くのだろうか。


スピリチュアルは何も天使やマーメイドや妖精のことを言っているのではないと思う。


目に見えない自分を見守ってくれている「何か温かいもの」のことだと思う。


それは自分だけしか感じられないことだけれど、同じように人に生死がある限り、共感は生まれるはずだ。


そして自分しか感じられないことだからこそ、同じように思っている人達が居ると言うのが嬉しいのだ。


目に見えない存在を信じようが、信じまいが、自分の人生を楽しめるようにして生きる。


そう、自分の心に正直に、「生き易く自然に生きる」 


それがスピリチュアルなのではないかと思う。


「そんなのオレ、信じねぇよー。がはははー」なんつって、お酒飲んで酔っ払って、


超毎日幸せな人。


その人も、スピリチュアルなのではないか、と最近思うのである。

(間違ってたら、ごめんなさいね)



かくして、うつつのスピリチュアルは、そう、ぽよぽよしたこんな感じです。  



桜水現実のサクラサク-nohohonn

のほほ~んとね☆