『エクリチュールの零度』 ロラン・バルト
エクリチュールの零(ゼロ)度 (ちくま学芸文庫)/筑摩書房¥1,080Amazon.co.jp再読。再読をほとんどしない僕が再読したのも、これがそれだけ重要だってこと。それと、ベンヤミンの読書を通じて、再読しないとなんも分からんなと実感したから。古典は再読することしかできない、って誰かが言ってたけれども、結局再読ってのは新しい本を読むよりもずっと大事みたいだ。この『エクリチュールの零度』で言っていることは結局、言語体と文体の間にはエクリチュールなるものがあるってこと。言語体はもともとそこで生まれ育って使ってきたものだから勝手にどうこうできる代物ではない。文体も作家の性質に密接に関連するもので、これまたおいそれと変えるものでもない。で、エクリチュールとはなにかというと、どうやら歴史の圧力、歴史との対立のなかで、これは文学であるぞ、と主張するようななにかみたいだ。カミュが『異邦人』で作り上げた書き方が「透明な(零度の)エクリチュール」とされているが、これは今までの文学作品における、「文学の書き方」というものを完全に無視して、逆転させ、(従来の)文学でない仕方によって書いたことによる。 もっとも、このエクリチュールって概念はバルト自身によって後年放棄されたようなので、あんまりエクリチュールって言葉を神話化するのもよくないだろうな。 それはともかくとして、かなりおもしろい議論が数々行われる。むかし、小説は単純過去によって基本的に書かれたが、この単純過去ってのはいわば神の視点による語り。たとえ主人公が、どんなに孤独に道を歩き、野垂れ死のうとも、かならずや語り手の語りによって繋がれ続ける運命にある。どんなに悲壮な世界が語られるとしても、見捨てられる物事はない。 それに対してカミュが小説で使った複合過去は、孤独だ。彼の語りを理解してくれる人がいる保証はないし、そもそも聞いてくれるかどうかも分からない。単純過去形は、実際には混沌とした世界に秩序を与え、こうこうしたから、こうこうなったという糸を通し、世界をまとめあげるが、カミュの小説のなかでは太陽がまぶしいからアラブ人は殺される。