『初期名作集 テレーズ・ラカンなど』 エミール・ゾラ
初期名作集 ゾラ・セレクション (1)3,888円Amazon『テレーズ・ラカン』を読むことができる。ルーゴン・マッカール叢書以前のゾラ。これを19歳とかで読んだら憤慨していただろうな、悪趣味で下劣で知性のかけらもない汚濁にまみれた犯罪小説。といった当時の批評の数々は真っ当なものだろう。ゾラ自身が弁護するその手法もなんだかアホくさい、私は別に悪行非道の極みを嬉々として描きたいのではなく、科学的手法で云々・・・と言われてもその科学ってのが四体液説と、前時代的な遺伝論だから、現代の読者の興味を引くものではないだろう。面白いのは、このテレーズ・ラカン、自然主義の一般的理解からするとやや意外なことに、もっと対象を正確に見ろ、自分の頭の中で思考実験しただけじゃないか、自然に基づいていない、とゾラが庇護を求めたサント=ブーヴに言われてしまっているのだ。 そしてそれがとても真っ当なものに思える、この段階(1867年)においては、ゾラはまだまだ甘さを残している。サント=ブーヴはパサージュ・デュ・ポン=ヌフはもっと明るくて清潔だと指摘する。訳者も、ところどころに挿入される登場人物の読書描写は『ボヴァリー夫人』を意識したものだろうが物語の本筋とは有機的連関がないとする。 そんな、粗さが目立つ小説だが、思いがけなくとても面白い。夫を殺して妻と恋人が再婚しようと画策する物語なのだが、前半の山場、カミーユをセーヌ川に突き落とす章の末尾。夫がボート事故で川に沈んだことに衝撃を受けヒステリーを起こしたふりをするテレーズに、親友を助けようとなんども川に飛び込むふりをするロラン、その傍らで読者の頭の片隅には引っ掛かりが残り続ける。ボート遊びをする前に予約した三人分の夕食ってどうなったんだ?それを予期して、この章はこう閉じる。「カミーユのための夕食は、ボート乗りの連中が食べた。」この短い一行にゾラが、こういった「くだらない」テーマの小説の書く時の作法が見えてくるように思える。この小説はサント=ブーヴが言うように、現実を複製するものではない、むしろこうこうこういった状況に陥った、こういう気質の人間はどのように振る舞うだろうか、ということに関する思考実験の積み重ねなのだ。頭の中で小宇宙を積み上げていくうちに、ゾラも興が乗り、自分が先に書いた細部について気になってくる。あれ、どうなったのかな、せっかく準備した料理を捨てるのは忍びないし、田舎のレストランだしなあ、とすると近くで救助活動っぽく騒いでいたボート乗りが分けてえ食べたに違いない。 とまあ、こんな具合に自分が作った状況に対していちいち答えを見つけていく。だから時に冗長に感じる時もあれば、このようにその情景が目のまえで展開されたかのようにもっともらしく(しかも一行で!)描かれることもある。 とすると、ルーゴン=マッカール叢書ではその思考実験の精度を上げていくために大量の資料を調査したわけなのだな。 ポーみたいに不気味な黒猫と、卒倒して以降はグリグリ動く「目」だけの存在となった老婆の二人が秘められた犯罪を唯一知る存在として素晴らしく有効に機能している。テーマの下劣さとは対照的に、文学的にはまだまだ掘り出し物がありそう。