『文学が脅かされている』 ツヴェタン・トドロフ
文学が脅かされている―付・現代批評家論五編 (叢書・ウニベルシタス)2,376円Amazonフランス語版が2007年に出たトドロフの最近の著作。フランスでの文学教育が、構造主義以降に、社会との関わりを絶った文学のための文学、さらに文学教員(でなければ無職)再生産のための大学の文学部となってしまっていることへの警鐘。張本人のトドロフだから言える事なのか。それでも、日本人からしたらフランスでの教育現場での「矮小化された文学」ですら羨ましいものに思える。文学が脅かされているというタイトルを見た時、日本人が連想する事は、文学そのものの死だろう(訳者もあとがきで触れているが、みたところ日本有数の大学の「文学部」に入ってくるものですら、まともに本を読んできた人は一割程度しかいないんじゃないか。それでいて、そういう人の方が本をたくさん読んできた自慢をする人よりもはるかに優秀なのだから困る)。 その点フランスでは自己目的化しているとはいえ、文学がまだ難しく、勉強に値するものとして学校教育で生き残っている、その生き残り方への批判が本書なわけで、日本人からすると贅沢な文句にも聞こえる。「文学が殺される」のは、「非文学的」なテキストが学校で学ばれるからではなく、作品を文学についてのフォルマリズム的、虚無主義的、独我論的見方の例証とすることによってである。(73)あっちでは文学理論のための文学に一時なっていたようだが、学校教育でもその影響は色濃く残っているようだ。フランス人にとっては国文学なのだから、作品分析なんてやりたがらないだろうし。トドロフは結論部分で、文学教員の再生産のための教育から、いかなる分野で将来働くものにとっても有益な人間形成の一環としての文学教育へと、言ってみればかつて文学が持っていた版図の回復を求めている。 それをあまり簡単に、「文学に効用性、社会への貢献(笑)を求めるつもりか」、と片付けるのは勿体無いだろう。他でもない、自分たちが作った文学研究の潮流が、中高生の教育現場でも、反映され、文学を結局は一部の専門家のみに益するものへと矮小化してしまったことに対する、トドロフの無念はグローバル・コミュニケーション学部(仮)の教授が求める効用と同一視すべきではないだろう。 ただ、フランス人の若者の間であってもあるいは、日本以上に文学嫌いが進行していることは確かだろう。そこそこ知的である人たちであっても「ゾラ?ああ、コレージュの教科書に載っていたね」であって(マラルメとかプルーストではなく!)、おそらくは大学受験の前に参考書でさらって、なんちゃら理論と、ほにゃららら流派でもって、数ページにわたるうまく構築された作文を作るための材料(実際に読む必要はない)になっているのだろう。(とはいえ、人のことは言えないが、東海道中膝栗毛とか読めないし、一生読むつもりもないのだから。) そういうわけで、この小さなエッセイは、文学を将来専門としない学生にとって、どういった文学教育が有益なのだろうと、ある意味ではあまりに素朴な問題に立ち向かったものであり、その結論ももしかしたらありきたりなのかもしれない。でも、文学なんて社会の役に立たないでしょうと人がいった時に、「でも文学がなければあなたのような人間が出来てしまうのですよ」といいたい気持ちを抑えて「まあ、読んでみたらわかりますよ」と返してしまうと、それは「エヴァを見ていなければ人生の半分損している」というタイプの言説と同一視されてしまう恐れがある。だからこそ、こういう「文学は果たして人生にどういう恵みをもたらすのだろうか」という問いはきちんと考えなければならないのだなあと思う。そうしないと、反社会的であることで自分が「文学的」だと思い込むような人にますます舵を奪われてしまい、日本ではフランス以上に「文学は殺されてしまう」だろうから。