祖父大野元美元川口市長と政治家の覚悟
【祖父 大野元美(元川口市長)と大野もとひろ】
忙しい祖父を見つめ「いつも大変だな」とモトヒロは思っていました。ある日、珍しく一緒に風呂に入ったとき「ちっぽけな手だけど、必ず何かをつかむ時がくるよ」と祖父は言いました。
モトヒロは中学生になりました。その大好きな祖父が病にかかり、入院が決まった時、「おじいさんの付き添いを一人でしたい」と言い出しました。家人はよい顔をしませんでした。懇願が許され、入院していた祖父に夜間付き添うことになりました。学校と病院を往復する生活。学校へは何かあったらどうしようと不安いっぱいで登校し、病院へは、はやる気持ちを抑えながら下校しました。
混乱していた祖父はしばしば病院を抜け出そうとしたりしました。漆黒の夜、したたるような月の光が窓から見えました。祖父が病院を抜け出そうとした時、モトヒロは両手を広げて、「おじいちゃん、だめだ!」と押しとどめました。
あんなにやさしかったのに、祖父はモトヒロを拳で何発か殴りつけました。
「今は議会開会中である。市長の俺が行かなければ、どれだけの低所得者や母子家庭の方々が困られるか分かっているのか。色々な事情で困っているみんなのために、行かなければならない。」
大きな声をあげました。
それは深夜の出来事であり、議会中でもありませんでした。しかしながら、モトヒロにとり、祖父の言葉はあまりに気迫に満ち衝撃的でした。
押しとどめなければ。行かせてやってもいいのではないか。時計の振り子のように二つの思いが猛スピードで心の中で揺れたのでした。揺れながら、止めどもなく涙が頬を伝いました。なぜそうなっているのか理解できませんでした。自分のちっぽけさと弱さだけが悲しくなり、祖父の圧倒される大きさに胸が熱くなりました。
祖父はそれからまもなく亡くなりました。
自分の手を見つめ「何かをつかめるかな、何かをつかまなければ」と思いました。
約十年が経ち、モトヒロは外交官になっていました。
外交とは、「武器を使わない戦争」と考えてきました。
ところが、初任地のイラクでは、その努力は水泡に帰し、国際政治の中で翻弄されて戦争が始まりました。戦争開始時の外交官の無力さと無念さは言葉にできないほどの 大きなものでした。
急ぎ帰国する時、イラク人に言われた言葉をモトヒロは 今も忘れません。
「お前は日本人だ。出国できる。俺はイラク人だ。ここにいる。米軍の攻撃を待つだけだ。元気でな。」
戦争がイヤで、平和がイイのはどの国民も同じはず。モトヒロは全く無力であることに力尽きた感じがしました。
モトヒロは湾岸戦争から六年を経て、再びイラクを所管 しました。目の当たりにしたのは、豊かで安定していた イラクが、制裁下、大混乱してきた姿でした。テロの巣窟となり、最悪で月に三千人もの人が殺害される国となっていました。一時は韓国とほぼ同額の一人当たりのGDPを 記録し、石油の富の下で所得税すらなかったこの国、犯罪は日本よりも少ないと感じた国が、混乱と絶望へ突き落されていました。
政治家の判断の誤りがそうさせたのだ。
とモトヒロは唇を噛み締めました。今の日本の安定もはかないものかもしれない。とさえ強く感じました。
政治は片時も判断を誤ってはいけない。政治は他人事ではいけない。そこには、人の命と生活がある。心に刻みました。
モトヒロは、今、駅に立ち、どんな小さな集いにも足を運び、雨に打たれても、風に吹かれても、お話を聞く毎日を繰り返しています。
拍手なくとも、まちのあちらこちらで静かにドラマが繰り返されている。
戦争がイヤで平和がイイのはどの国民も同じ。そう痛感しています。胸の高鳴りを抑えきれず、笑い、怒り、涙しています。
「行かなければならない」祖父の大きな声がモトヒロの 心の中でいつもいつも叫んでいます。
政治家の覚悟を祖父の姿勢から学びました。その覚悟を胸に、大野もとひろは埼玉県知事選挙に挑んでいます。