『東松浦郡及唐津市先覺者小傳』(鶴田定治、東松浦郡敎育會雜誌部、昭和15年2月1日発行)という本に右仲さんについての記述があるとのことで、昨年の佐賀来訪時に閲覧してきました。
同書には
「△△大野右仲
大野右仲通稱又七郎と稱す。天保九年呱々の聲を擧げ夙に昌平黌に學び交游<ママ>極めて廣く北越の豪傑河合<ママ>繼之助と最も親しみ善し。又小笠原長行の知遇を受け常に左右に侍しで可否献替する所少しとせず。不幸時勢の變に會し長行に從ひ東北地方に顚轉し、凾館の役に渠帥の列に在るを以て幽囚の身となりしが事鎭まりて後豊岡縣の權參事に擧げられ千葉縣御用係<ママ>、長野、靑森、秋田等の警察部長に歷任最後に東松浦郡長となり之を以て官途の終りとし、悠々自適の生活を營み明治四十四年六月十四日七十四才を以て東京に於て病卒せり」
との記述が。
ここでは亡くなった日が六月十四日とされていますが、過去帳に記された土葬した日と混同したのかも知れませんね。
この他に「先覺者表」という貢があって、そこには
「氏名 大野右仲
出生年 皇紀二四九八年 天保九年
死亡年 仝 ニ五七一年 明治四十四年
生地 唐津
墓地 東京
子孫祭祀者氏名 東京市杉並區荻窪三ノ三○ 祭祀者 外孫 川原篤
<後略>」
なんと、大野家の祭祀者についての記述がありました。
外孫(他家へ嫁いだ娘が産んだ子供)とあるように、右仲さんの三女・謹(謹子)の息子がこの川原篤。
で。この記述を見て思い出したのが
↑の記事で触れた右仲さんの大野家について。
右仲さんの後、家を継ぐ人間がいなかったため三女・謹の長女である喜佐子に継がせたが、大正7年に19才という若さで亡くなってしまい大野家が絶えてしまったという話。
篤は川原家の長男であったため大野家は継がなかったけれども祭祀者となったと見るべきなのか。
そうするとその後も祭祀を行っていたのは川原家という可能性もあるということなのか…。
ううむ、謎は深まるばかり…
ちなみに川原篤は早稲田大学政治経済学部の教授を務めていたそうで、どことなく大野家の血筋を感じますね。
この本が発行された約5年後の昭和20年1月に44歳という若さで戦病死されたようです。
そして。
このブログを始めた当初、右仲さんの生まれた場所について江戸説あるけど唐津なのでは?という話をしたのですが、先程紹介した「先覺者表」に生地が「唐津」とあること、
明治29年に恩給増額願を出した時の履歴書に「千葉縣士族 元唐津藩 大野右仲 天保九年十二月八日肥前東松浦郡唐津町ニ於テ生」とハッキリと記載があること、
また、明治12年の公文書にもいくつか「旧唐津藩長﨑縣士族肥前國松浦郡唐津元郭内居住<中略>大野右仲」という記述が見られ、右仲さんが唐津で生まれ、居住していたことがうかがえます。