新井常保のことなど | 興宗雑録

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大野右仲に関する様々なネタを取り上げていくブログ。
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過去のコチラの記事↓で右仲の弟である米渓彦作こと新井常保について取り上げましたが

数年前にX(旧twitter)の相互であるU様よりとある資料についてご教示いただき該当の資料を確認したのですが、その際に他の資料も確認したところ新井常保について色々と判明したことがあったので、補足していきたいと思います。

 

 

●生年月日

 

履歴書から弘化元年三月二十四日生まれであることが判明。

 

これにより、右仲(天保九年(七年説有)十二月八日生)→澄(天保十一年七月生)→常保の順に生まれたことがわかります。

 

 

●新井常保への改名時期

 

彼の弟・大野立と名乗る人物(現時点では詳細不明)の出した届出によれば明治三年以降に「新井常保」と名乗った模様。

ただ、改名する前に別の名前(大野彦作)を名乗っていたとも。

 

過去記事に彼が「維新前に脱藩した」という話を紹介したものの、その記述以外にそういった話を見たことがなかったのですが、届出にある「元唐津藩士族に別段召抱に成る」という記述からあるいはそうした表現をとったのかなとも思ったり。

もしくは彼の義父(米渓新助)が慶応四年三月の三井令輔暗殺に関与しており、彼に害が及ばないように脱藩扱いにしたのか・・・等色々考えるのですがこの辺りはもう少し調査が必要になるところですね。

 

 

ちなみに備中松山藩士・辻七郎左衛門が明治二年の謹慎中に記した『艱難實録』に

 

「<前略>小笠原公(=長行)御供尾崎勇白井と変姓 嘉右衛門倅也、丹羽絃三郎本姓名承候得とも失念大野又七郎弟也、<後略>」

(『艱難實録』 所収 「艱難實録 中」 辻七郎左衛門、間遠の会・編、平成20年発行)

 

とあって、辻さん・・・そこ(丹羽=米溪彦作の本姓名)・・・失念しないでっ‼って感じがしなくもないんですが(苦笑)、弟がこの時点で兄の又七郎(右仲)と同じ大野姓を名乗っていたらそこは覚えてると思う(大野某とか書くと思う)ので、ここではまだ米渓姓を名乗っていたのではないかなと。

 

 

他に害が及ばないように旧姓・大野を名乗って、あくまで新規に召し抱えられた風を装って届出を出したとも考えられるのかな~と。

 

届出が明治六年に出されていることから見ても、明治政府出仕(次の項目で触れます)を視野に入れてのことだったのかな、とも。

 

 

 

●明治政府出仕

 

過去記事で明治七年二月二日より以前としていましたが、これも履歴書の記述から明治六年十一月に正院法制課に十等出仕していたことが分かりました。

また、出仕後2日で当時権大内史をつとめていた小松彰に随行して陸羽地方に出張するよう命じられています。

 

兄・右仲は明治四年十一月に出仕しているので、その二年後に彼も明治政府に出仕していたのですね。

 

そして右仲とも一時期共に働いていた小松と接点が・・・!

右仲と小松の関係性から見ても、弟・常保のことは前々から知っていた可能性は高いと思うので、これは単なる偶然ではないのかも知れません。

 

 

ちなみに、佐賀の乱前後のことについては現在他の資料を確認している最中なのでまた後日改めて記事にするとして…明治八年四月二十四日に左院が撤廃。

その後は主に教育関係の仕事に就いています。

 

 

●その後の足取り

 

明治十二年一月に唐津中学校の校長に任じられ、翌十三年二月に訓導を兼任。

(※過去記事では唐津中学校の校長になったのは明治十四年との表記になっていましたが、履歴書と『佐賀県教育史 第二巻 資料編(二)』(佐賀県教育史編さん委員会・編、佐賀県教育委員会、平成2年3月20日発行)に明治十二年との表記有)

明治十四年十一月に唐津中学校長兼三等教諭。

 

明治十五年三月長崎中学校長兼三等教諭。

同年七月長崎外国語学校長兼三等教諭。

 

明治十六年七月轟木中学校長兼三等教諭に任じられるが、翌十七年六月に轟木中学校が廃校。

 

 

明治十八年十一月に太政官より御用掛を申し付けられる(扱いは准判任)。同日第二局勤務も申し付けられるが、翌十二月に内閣制の発足に伴い太政官が廃局。

・・・余談になりますが、同時期の第二局大書記官・股野琢は藤森弘庵塾で右仲と同門だった人物。

小松といい、政府の仕事をする時に兄の知人がよくいるはたまたまなのかそれとも・・・??

 

 

明治十九年八月海軍主計学校教授嘱託となる。

 

明治二十年十一月海軍助教に任じられ、叙判任官六等となる。同日、主計学校勤務を命ぜられる。

 

明治二十一年十一月海軍教授に任じられ、叙奏任官六等となる。翌十二月海軍主計学校勤務を仰せつけられる。

 

明治二十二年二月海軍主計学校教官を仰せつけられる。

 

 

明治二十三年 長女・時子誕生。

 

 

明治二十四年八月非職を仰せつけられる。

 

同年小笠原長行没後、息子・長生の願いにより、田辺新之助、百束持中(半七郎)と共に長行の伝記(『小笠原壱岐守長行』)の編集にあたるべく、『久敬社誌 第十九号』(明治24年9月16日発行)に広告を出す(この後数十年に渡り編纂する)。

 

同年九月依願免本官。同日海軍主計学校教授嘱託となるが、明治二十六年一月その嘱託を解かれる。

 

同明治二十六年四月東京府尋常中学校漢文科嘱託教員として試用される。

 

明治三十三年七月に退職若しくは転職か。

 

 

 

ひとまず明治三十三年七月までの足取りは判明しましたが、まだまだ目を通していない資料も多数あるので今後またわかったことがあれば記事にまとめたいと思います。

 

それにしても教育関係…しかも漢文科の先生になるあたり大野家の血をしみじみと感じます。