奥村五百子 | 興宗雑録

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先日の記事で少し触れた唐津藩の女傑・奥村五百子について、幾つかの書籍を引用しながらお話したいと思います。

 

 

まずは長行様の息子である長生様の編著による『正伝奥村五百子』(小笠原長生・編、南方出版社、昭和十七年二月十五日発行 所収 「血統(一)」)よりその前半生について、以下に引用します。

 

「 奥村五百子女史は弘化二年五月三日、肥前唐津の城下、釜山海高徳寺の十二世、奥村了寛法師の一女として同寺に呱々の聲を上げたのである。

 母は山田淺子。

 兄は圓心師。

 女史は六歳の頃、輕い天然痘の爲めに天性の美貌を聊か奪はれたが、天票の姿態の優雅さは時に熱血的な彼女の言動にも拘らず、決して毀損されてはゐなかった。

 當時、一般庶民の學問は勿論盛んでなかつた。殊に女子は、ただ両家の子女だけが、それも心ある親達の勧めによつて、家事のひまひまに、家庭で手習をさせ女大學を讀ませてゐる位に過ぎなかつた。

 だが、女史は、七歳の時、唐津大明神の社司戸川惟成の門に入つて、讀書や習字を初めたのである。

 これは偏に勤皇僧たる父了寛法師の賜物といふべく、女史の大成は、ここに其の第一歩を踏み出したと言つてよいだらう。勿論、天賦の英才や、常人と異なつた其の熱血性を見のがすわけにはいかない。

 だが結局するところ、それだとて、この父、この母ーーーを有つた彼女の幸福といはねばならぬ。

 長ずるにつれて、女史は何かと其の非凡の氣象<ママ>を顯はし、時々、世人を、あつと驚かすやうな事をしたり、又大いに困らせたりする事があつた。

 <後略>」

 

唐津の高徳寺に生まれた五百子は女子の身でありながら唐津神社の宮司である戸川惟成の私塾に通い、また男の子と一緒に遊ぶような元気いっぱいな子供だったようです。

 

 

ちなみに同書には彼女の父親である奥村了寛についての記述があるので、こちらも紹介しようと思います。

 

「 父了寛は、左大臣二條治孝卿の三男寛齋の子で、幼名を增千代といつた。了寛は文政七年、年齢僅かに九歳の時、松浪諸太夫の養子となつて、更に松浪家から高徳寺に養子として迎へられたのだつた。

 何故、左大臣の孫である增千代君が田舎の貧乏寺へ養子となつたかについては、こんなわけがある。

 當時、徳川幕府の公家に對する態度には、表面は可成り尊崇したやうに見せて、裏面では之を抑歷仕様といふ遣り方であつた。從つて公卿は空名を擁して其の日の生活にも事缼くと言つた事柄が多かつた。だから二男三男に生れた者は、いろいろの緣故を賴つては、それぞれの生活の爲めに地方へ轉出したものであつた。

 そのくせ、幕府でもかうした公卿と諸侯の交際を又極度に警戒したのである。で諸侯が公卿の子弟を養子として迎へることは大變むづかしくて、實際問題としては寧しろ不可能な事だつた。だから、公卿の次男以下は、百姓や町人の列に下るのも不見識であり、せめては僧侶にでもなるのが、彼等としては唯一の逃避策だつたのである。<後略>」

(『同掲書』 所収 「血統(二)」)

 

 

父・了寛は京都の公家出身であることもあって勤皇の志が厚く、五百子もその影響を強く受けたといわれています。

 

 

そんな五百子がある時、父に代わり国事に奔走する事態となります。

 

 唐津藩は徳川譜代大名の治める藩であり、特に当時小笠原長行が幕閣であったこともあり、幕末期の抗争の中では佐幕派が優勢であった。その中で父・了寛が京都公家の出身であったことから、高徳寺はこの地方の尊王派、倒幕派の拠点となっていた。長州藩の家老である宍戸家は奥村家とは親戚にあたり、倒幕運動の連携を取り合っていたが、文久三年(一八六三年)に起きた下関戦争のため、長州藩は一時、周囲から男子の入国を禁じた。そこで奥村了寛は五百子を密使として派遣することにした。

 騒乱の世に十八歳の娘の一人旅では、道中が余りにも危険なので、了寛は五百子を若武者姿に変装させ、途中までは警護をつけて送り出した。門司の浜で五百子は従者を帰し、ひとり小舟を雇って今の下関市赤間関の浜に上陸した。ほどなく長州藩の武士たちに捕らえられるが、よく見ると若い女性なので武士たちは皆驚き、対応に戸惑う。五百子は落ち着いた態度で潜入の目的を述べ、家老への面会を求め、それを実現した。

 了寛から長州藩家老へ送られた密書の内容は、唐津藩と周辺の情勢報告のようなものと推定されているが、詳細は分かっていない。しかし、こうして使命を果たした五百子の武勇伝は、尊王派の志士たちのあいだで有名になり、唐津の高徳寺を訪れる志士たちも増え、寺は倒幕運動の拠点としての性格をますます強めていく。慶応元年(一八六五年)、三条実美ら、主だった公卿たちが太宰府にに逃れてきた時、奥村了寛は五百子を太宰府に派遣して、公卿たちに様々な便宜を図っている。」

(『時代を拓いた唐津の先人』宮島清一、海鳥社、2019年10月10日発行 所収 「5⃣奥村五百子」)

 

 

文久三年(一説に文久二年、元治元年のこととも)、五百子は父の密使として男装し長州藩へと走ったそうです。

 

その経緯や下関において一悶着した時の様子など『小笠原長生全集 第五巻 思ひ出を語る 偉人天才を語る 鐵櫻随筆』(小笠原長生、平凡社、昭和11年12月23日発行 所収 「奥村五百子との初對面」)に記述があるので、長くなりますが以下に引用します。

 

「 時は文久三年でありました。さしも權威に誇つた德川幕府を、盛者必衰の理(ことわり)に漏れず榮華の夢吹く風冷(ひやゝか)に海内漸く多事ならんとした。其の機に乘じて尊皇攘夷の急先鋒となり、諸藩の志士と相呼應して、大事を成さんと企てた三條實美卿以下の七卿も、時運未だ熟せざりしか、反つて朝廷の御勘氣を被つたので、是非なく京都を後にして倒幕策源地の觀ある長州藩へと落ちのびました。それと聞いて、或は感じ、或は歎いた幾多の志士の中に、唐津高德寺(眞宗大谷派)の住職奥村了寛といふ慷慨悲憤の雄僧が居りました。

 惡戯好の運命の神は、此處にも其の慣用手段を弄んで、幕府老中の領地内に倒幕の猛將を出し獨り竊に北叟(ほくそ)笑んでゐたのであります了寛師は、何としても七卿を慰問し、併せて長藩に謝意を表さねば濟まない、と心を定め、殊に自分の妹が、長藩の老臣何某家に嫁いでをりますから、旁以て何人かを使者に立てよう、と考へた、が、當惑したのは此頃長藩では、他方(よそ)から男子の領分内に入るのを嚴重に取締つて、殆ど許さない、との風説が傳つてゐた事であります。仍(そこ)で止むなく、娘の五百子を遣さう、との窮策を案出したが、其の云ひつけ方が又頗る奇拔でありました。

『五百!お前の命を貰ふ時が來た。老父(わし)の爲めでは無い朝廷の御爲だ。一人長州へ乘込んで、老父の手紙を何某の義叔父<後述では宍戸の叔父とあり>に渡せ、然して此の事を母に告げると承知せぬぞ、又途中は勿論、先方へ往ても、どんな變事が起らうも知れぬ。若し斬られるやうな場合に、痛いなどと言ふたら<後述では斬られても笑って死ね。かりそめにも卑怯の擧動(ふるまい)でもしたらとあり>七生までの勘當だぞ』

『畏まりました。斬られたつて痛いなんて言ふものですか<後述では卑怯なことなどするものですか。御安心遊ばせとあり>』

 これが彌陀を念ずる六十餘歳の老僧と、花恥かしい十九の乙女の問答だから驚きます。

 其の夜丑滿(うしみつ)の頃、高德寺の裏門が音もなく開いて、老僧に送られながら忍び出た武士體の一人がありました。義經袴に朱鞘の兩刀を帶び、深編笠を被つて居ましたが、物越は如何にも尋常で、芝居に能くある女形(をやま)出の色若衆を見るやうでした。彼は無言で老僧に輕く會釋したまゝ、二度とは振返りもせず、昻然として闇夜(やみ)に姿をかき消しました。

 船を出しやらば夜中に出しやれ、帆影見るさへ氣にかゝる、長門の秋の夕暮は、歌によむてふ文字<ママ。門司>ヶ關、下の關とも名に高き、と近松が艶なる筆に綴られた風流(みやび)の場所に、何事ぞ幔幕張つて劒戟鐵砲の光日に映じ、見るからに物々しき番所の前、怪しと睨んだ男出立(をとこいでたち)の娘を圍んで、拔身(ぬきみ)の槍は枯野の薄(すすき)と物凄い。

『何用あつて何處へ通る?』

 頭と覺しい一人が、嵩にかゝつて極めつけますのを、聽いてか聽かずかじろり一瞥、

『強い強いと評判の長州藩も、聞くと見るとは大きな相違、まア呆れたこと!十九歳の娘がそんなに恐う御座んすか、ホツ、ホツ、ホ』

『娘が何故男子の形(なり)をする、又何用があるのだ、吐(ぬか)さねば婦人とて容赦はせぬ、一突(ひとつき)だぞ』

『まあ、嚇(おどか)しつこ無しにしませう、男子の形は途中の用心、又何用かは、失禮ながら貴殿方に言はれるものですか、それよりも何某家(後述に宍戸家とあり)へ往て奥方に、唐津から五百が來たと傳へて下さい、あゝ疲勞(くたびれ)た、少し此處を拜借しますよ』

 言捨てゝ番所の緣に腰をかけ、大欠伸(おほあくび)した不適さに、番卒共の度膽(どぎも)を拔き、遂に高杉(晋作)等長藩の俊髦(しゆんばう)を向ふに廻して、勤王論の雄辯を振るふ<後略>」

※<>は興宗による注です

 

若干…いや大分お芝居がかったような話に思えますが汗五百子の男勝りで相手が誰であっても物怖じしない性格や前述の世人をあっと驚かすような事をするという姿がこの記述からもわかる気がします。

 

 

五百子はその後慶応二年に唐津塩屋町・福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐも数年後に死別、その後水戸藩士の鯉渕彦五郎と再婚しますが明治二十年に離別。

 

三十年には兄・円心が布教を行う朝鮮の光州に渡り、実業学校を設立を決意。翌年近衛篤麿と大隈重信の支援を受け学校を開校。

 

三十三年、布教のため中国滞在中に北清事変(義和団事件)がおこり、東本願寺の慰問団に加わって現地を視察。

このことがきっかけとなり、帰国後の翌三十四年に近衛篤麿や小笠原長生、華族婦人らの賛同、支援を受けて兵士慰問や救護、遺家族の支援を目的とする愛国婦人会を創立。

その後全国遊説の行脚に出ますが、三十七年に壇上で吐血したことにより打ち切られます。

 

三十八年には病身を押して日露戦争の戦地へと赴き慰問に努めますが、翌年には婦人会の活動から引退。

 

最期は京都大学病院で広岡浅子に看取られ、明治四十年二月六日に息を引き取ったそうです。

 

 

五百子の晩年の活動を援助した人々の中には榎本武揚、樺山資紀、楠本正隆等がおり、その葬儀などについては『時代を拓いた唐津の先人』(宮島清一、海鳥社、2019年10月10日発行 所収 「5⃣奥村五百子」 )に以下のような記述があります。

 

「 五百子の葬儀をどのように行うかは、ひとしきり議論になった。結局、広岡浅子の意向を受け、五百子が関わった人々の合同葬のようなものになり、国も平民の女性としては最大限の敬意を払った。遺体は愛国婦人会京都支部を出て葬儀場である東本願寺大学寮まで行進した。葬儀の主宰者は婦人会総裁である閑院宮載仁親王妃智恵子、その名代を東本願寺法主・大谷光演の妻・大谷章子が務めた。葬儀委員長は京都府知事・大森鐘一であった。

 実は閑院宮妃智恵子と大谷章子は姉妹であり、共に三条実美の娘である。幕末の尊王倒幕運動の最中、太宰府に逃れた三条実美らに五百子が仕えて以来の縁である。後に東本願寺に嫁いだ章子を、五百子はわが子のように可愛がっていた。遺骨は東本願寺の東大谷納骨堂に納められ、東京の浅草本願寺と唐津の高徳寺にも分骨され、お墓が作られた。

 追悼会が各地で催された。特に浅草本願寺で行われた二回忌には五〇〇〇人が参列したという記録がある。一周忌には大久保高明による詳細な伝記が出版され、その後、東京九段、横浜、唐津、光州、ソウルなどに銅像が建てられた。」

 

その生涯の大半を国のため、人のために奔走した奥村五百子。

各地で追悼会が催されたり、銅像が数か所に建てられたりと、多くの人々に慕われたことがうかがえます。