印具馬作(帆足徹之助)のことなど | 興宗雑録

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今回は蝦夷へと渡った唐津藩士・印具馬作についてお話しようと思います。

 

 

 

まずはその略歴について『新選組大人名事典(上)』(新人物往来社・編、新人物往来社、2001年3月10日発行)より。

 

「印具馬作(いんぐ・まさく)[天保十四年五月二十二日~明治三十三年五月二十七日]

 <中略>

 幼名、馬之助。嘉永二年十二月に官悦、安政元年十一月に三治と改称す。元治元年九月三日より馬作を名のる。明治初期、帆足徹之助と改名。

 元肥前唐津藩士。本国は豊後。唐津藩士・印具官太(興治)の長男。嘉永二年十二月二十七日に表坊主見習に召し出されて以来勘定役などを歴任、慶応三年七月二十七日御徒目付席、同四年一月十三日御代官並席寺社宗旨方下役となる。禄高八石三人扶持。 

 慶応四年三月十二日に市橋卯左衛門率いる藩兵の一員として唐津を出発し、豊前中津より船で海路大坂へ向かい、四月八日京都に達する。朝命により同地を発し、六月四日江戸に到着。七月二十八日に部隊を脱して榎本艦隊長鯨艦に乗り込み、八月十七日朝には別船へと移って、十九日夕方、寒風沢沖に投錨後、小舟をもって塩竃に上陸。二十三日白石において小笠原長行の一行と合流している。のち奥羽列藩同盟が瓦解をはじめたことに伴い仙台に逃れる。

 同年九月中旬、仙台で新選組に入隊する。二十日朝に先発して松島滞在中の長行一行のもとへと赴き、新選組へ加入したことなどを報告している。また十月三日朝に石巻から長行一行が榎本艦隊開陽艦に乗船するときに、見送りのための供をする。自らは別の大江丸という船で蝦夷地へと渡航し、十月二十四日の七重村の戦闘を経て箱館に至り、早速に同所関門の守備などを受け持つ。

 新選組時代の一挿話が残る—。箱館陥落直前での戦闘のことだったらしいが、慕っていた旧藩主の令息・小笠原胖之助公子を斃した敵を発見し、たちまち近づいたかと思いきや相手の刀を引き抜いて斬り捨て、敵討ちの本懐を遂げたという。この刀というのが胖之助のもので、戦死のおり奪い取られたものだったという。後年、この刀は小笠原家に持参され、胖之助の墓に納められたという。このことが原因ではないかと思われるが、左記の通達書に見られるように印具だけ処分が重くなっている。

      唐津藩知事 小笠原長國

   元其藩帆足徹之助永蟄居申付置候處

   今般被差免更ニ謹慎申付候事

     三月       兵部省

 明治四年一月十四日、唐津藩士たちによって歎願書が提出されるなどして、ようやく三月十七日になって釈放された。飄々としてはいたが、頑固一徹の人物であったという。佐賀県東松浦郡北波多村竹有二八番地において没し、法号を「英俊院鐵翁義雄居士」という。享年五十八歳。菩提寺は佐賀県唐津市西寺町五一一の近松寺。」

 

ここにも記されているように、馬作は他の藩士達とは違い、国許・唐津から大坂・京都・江戸を経由し途中から長行様一行に合流しています。

 

 

ちなみに戊辰戦争中の詳しい動き等については奥村五百子の伝記『奥村五百子詳伝』(大久保高明、愛国婦人会、1908年刊)に記述があるので、長くなりますが以下に引用します。↓

 

「   帆足徹之助の事

 印具官太長男馬作後帆足徹之助と稱す二男次郎(印具氏を襲く現に安東縣)三男三郎(徹之助の後を受け帆足と稱す神戸に在住す)

 明治元年の頃小笠原佐渡守<=長国>唐津藩主藩籍を奉還し朝廷に歸順す朝廷佐渡守を以て京都に出兵を命ず印具馬作弟次郎共に之れに從ふ又江戸出兵に轉す印具兄弟亦之れに從ふ

 此の時小笠原壹岐守(世嗣)<=長行>幕府の老中の故を以て已に會津に脱走す印具馬作或日弟次郎を二階の人無き一室に招き曰く今日の時勢已を得ず藩主佐渡守は朝廷に歸順せり壹岐守世嗣は幕府の故を以て會津に在り亦從はざるを得ず于は夫れ佐渡殿に從へ我れは此の地を脱し(江戸)壹岐殿に從はんと弟次郎氏之れを拒み云く兄は印具の相續者たり佐渡殿に從ふべし予替りて壹岐殿に投ぜんと兄馬作聽かず止むを得ず兄の言に順ふ時に二郎<ママ>氏病に罹り在り故を以て兄馬作百方病氣願に盡力し遂に弟氏を歸さしむ此に於て兄弟袂を東西に分ち官賊其方を異にす亦戰時の形勢已を得ざるなり馬作氏會津に赴く會津已に落城に及ぶ夫より函館に落ち戰爭數合す帆足氏事故ありて密に函館を出で大阪に行く沿道尋常にて通行す可らず鍋島家(佐賀藩)の家僕に變裝し鉾持となりて遂に東海道を經て大阪唐津倉<ママ>屋敷に着く同藩士に種々用金調達を説く聽かれず遂に伯父山田官右衞門に説く山田氏は大阪留主<ママ>居職たり甥馬作氏の言を容れて貳百兩を調達す馬作氏之を携帶し函館に歸る此の時已に印具馬作を改めて帆足徹之助と稱す

 再び函館を出で江戸に出づ氏東海道往復の際品川灣に政府の軍艦あるを知悉し之れを奪ふの謀略を談せしことあり依て函館にても同志(□本氏も亦其中に在りと云ふ)相謀り遂行の爲め再び江戸に出で其計盡中他の爲めに漏るヽ處あり政府搜索嚴なり氏身を容るる處なし弾正臺(官命失す)大村益次郎氏によりて自首す牢獄中に投ぜらる其連累者の有力者中に在るを慮り拷問殊に甚し或は算盤責め或は大石を膝上に載せ種々尅苦の拷問あるも遂に責めを一身に受けて言の連累者に及ぶなし口述已に具す獄に居ること數閲月(時日間詳かならず)自ら斷頭場□<臺ヵ>に上るを覺悟しありしに幾干なく小笠原<=唐津藩>預けとなり鄕國に護送せられて藩の牢屋に入る困苦亦數日月なり此の際同志者或は親族種々の申立をして刑期を緩にするの計畫あり奥村圓心師より禪正臺渡邊昇氏へ歎き申立て渡邊氏の厚意にて遂に親預けとなりて牢を出づる事を得たり爾後藩の社寺役所の官吏となり又轉じて石炭掛の役員となりて之れに熱中して力を盡せり明治九年の頃に至り藩の厚意公債を與ふるの擧ありしも自己士族の束縛を受くを屑とせず遂に平民に下り實業に從事す長崎市の富豪永見傳三郎と結託し唐津岸山に炭鉱を發掘し器械を据ゑ大に事業を擴張し今の炭鉱の盛大を實現せしは同氏の發起に係るものなりと云ふ 

 明治三十七年病を以て歿す行年六十六」

※字の判読が難しいものについては□であらわしています

 <>は興宗による註。

 

同書には新選組関係の書籍ではあまり触れられていない印具馬作こと帆足徹之助兄弟についてや馬作が赦免後何をしていたかについて触れられています。

ただ没年及び享年の記述が他の書籍と異なるなど全ての内容について信を置けるかは若干微妙な箇所もありますが、それでも貴重な内容であることに変わりはないと思われます。

 

 

 

更に峠下の戦いで戦死したプリンスについての記述も。

 

「〇函館戰爭中小笠原胖之助氏壹岐守の義弟にして變名三好豐歟<ママ>或は裕歟<ママ>戰死す(當時唐津佐幕家の主領なるべし)其死骸分らず帆足氏百方之れを求む在らず十兩の懸賞にて大に求む兵士之れを告ぐ帆足氏至り見る果して眞なり自ら之れを脊負ひ陣に歸り哭泣數時追腹を切るの念あり大野右仲氏頻りに之れを止む已を得ず大野氏の言に順ひ胖之助氏の遺骸を受け鄭重に之れを葬れり後ちに同遺骸を唐津町近松寺に改葬す」

 

敵との交戦を終えるもプリンスの姿がなかったため探したけれど見当たらず、十両の賞金を懸けて探させたこと。

そして遺体を見つけ、それを背負って帰陣したこと。

追腹を切ろうとしたものの、右仲さんに止められ遺体を葬ったことなどが記されています。

 

そうした衝動に駆られてしまうほど、プリンスの死はとても辛く耐えがたいことだったのでしょうね。

 

 

 

その後馬作は他の藩士達と再び別行動を取り、箱館から数度離れて東海道を往復している時に新政府側の軍艦が品川沖にあるのを知り奪取を謀りますが、計画が漏れ新政府からの捜索が厳しくなったため自首し投獄されたそうです。

やがて唐津藩に送られ藩の牢屋に入れられますが、同志や親族が申立をし許されることに。

 

明治七年に長崎市の豪商・永見傳三郎との協同経営で唐津岸山寺ノ谷に汽鑵を据え付けた掘削法による採炭をはじめ、唐津炭田における機械利用の端を発したそうです。

 

 

 

ところで同書にとても気になる記述が。

少し前の唐津レポの記事でもさらっと触れたのですが、先程紹介した帆足徹之助の記述の少し前に「刀自<=奥村五百子>の親戚なる帆足兄弟」という記述がありまして。

(内容は明治二十三年頃衆議院選挙の際に反対党の襲撃があるとの噂を聞いた五百子が、当時自分の推していた天野為之を守るため自分と帆足兄弟と外1人の4人だけで防禦準備をしたというもの)

 

印具(帆足)兄弟と奥村五百子が親戚、という記述は自分の知る限りでは他ではあまりお見かけしたことがないのでかなり驚きました。

 

 

先程引用した文の中に出てくる伯父山田官右衛門→印具兄弟の親の兄。

同じく文中に出てくる奥村圓心→五百子の実兄。奥村兄妹の母も山田姓(山田浅子)。

もしかしたら印具兄弟と奥村兄妹の親同士がきょうだいである可能性があるかも??

 

この辺り、今後もう少し調べてみたいと思います。