奥村屋店主を偲んで
病室のドアがノックされ、顔を覗かせたのは当時の部下のA子さんだった
ドアをあけた瞬間彼女が固まるのがわかった
「お、お、思ったより、げ、元気そうじゃないですか」
そう言った彼女の表情は引きつっていた
そう・・・
今から6年も前に心臓を患って私が入院していたときの事だ
ベッドの回りに立てられたスタンドの数は7本
その7本のスタンドにはそれぞれにルータのような機器がぶら下がっていた
後日その姿をずむ氏は
「プロバイダーみたいだった」
と表現していたが、まさしく言いえて妙
7個の機器と私の体は透明なチューブで接続された、まさにネットワーク機器のようであった
北海道から札幌に呼び出された母は医師に
「五分五分です」
と告げられたそうだが、後日その医師が笑いながら
「経験上八割方ダメだと思った」
と言われたときにはさすがに背筋が凍った
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そんな病院での長く退屈な生活を続けたある日
ようやく回復し初めて出していただいた外出許可
医師の許可を得て食べに行ったラーメン
白い暖簾をくぐり壁のメニューを見ながら「中華そば」と注文
その声はもしかすると震えていたかもしれない
ほどなくして運ばれてきたラーメン
茶色にやや濁ったスープから漂うなんともいえないカツオ節やサバ節の香り・・・・
表面に浮かぶ透明な油
スープの色にメンマの色にチャーシューの色・・・全体的に茶色の配色の中、白地にピンク色の渦を巻いたナルトだけが妙に目立っていた
レンゲを持つ手は確実に震えていたと思う
一口スープをすすると、全身にトンコツと魚介のスープが染み込むような気がした
う・う・うまいー
奥村屋の中華そばと出会った瞬間である
当時の麺はやや太目の麺だったと記憶しているが、形状がやや丸味を帯びていたように思う・・・
もちもちとした歯ごたえ・・・・
太目の麺ながらスープへの絡みも良く、相性も抜群だった
おいしい・・・・
そして
生きていて良かった
というしみじみとした思いが湧き上がってきた
半分ほど食べた頃、医師の
「スープを飲まないと約束するなら食べてよい」
という言葉を思い出した・・・
そこで初めて強面の店主に声をかけた
『すみません・・・実は病院を抜けてきて・・・・
すごくすごく美味しいんですけど、医者との約束でスープは飲めないんです』
強面の店主から満面の笑みがこぼれた
「そうかい!気にしなくていいって」
後ろから奥様も笑顔で
「気にしなくていいですよ」
と続けてくれる
この瞬間完全にやられた
「一目惚れ」だった
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それからも何度か病院を抜けて訪れた奥村屋へと足を運んだ
店主に
「行列になる前に通わなくっちゃ」
と投げかけると
「そんなに簡単なもんじゃないよ」
と苦笑いをしていたのが印象的だった
(※写真は2005年6月移転後の画像です)
だが、行列店になるにはそれ程時間はかからなかった
それから程なくして退院したのだが、定期的に検査のため病院へは通うことになる
通院の度に奥村屋へも当然のように足を運び行列の最後尾に並んだ
「富津の方まで行って、アサリを天日干しさせてるんだ!」
そう言っていた店主の自慢の食材が出来上がったのだろう
"潮(うしお)そば"というメニューが登場していた
貝の旨味がギュッと溶け出したスープ・・・・
日本人なら誰もが心をふるわせる味だろう
カツオや煮干の香りも強く立ち上るのだがどれもこれも絶妙のバランス
口の中に色々な旨みが広がる
この頃はつけ麺を食べることが多かった
麺は太目ながらやや平たい形状だったように記憶している
最初からこの形状だったか、途中から変わったかこの辺の記憶は曖昧になっている
だが、冷たくキリリと引き締められた麺の食感と甘み
その麺がアツアツのスープと合わさるとなんとも言えない幸せな気分になった事だけは鮮明に覚えている
また、地鶏そばなるものもその後に登場した
濃厚な地鶏の旨みが出ているが、やはり奥村屋ならではの独特の魚介の風味が香ってきたのが思い出される
そういえば、最後にお会いしたときに、
「まだ行列ができる前の湯島の大喜の鶏そばを食べたときはぶっとんだ」
と店主が語っていた事・・・それも思い出の一つだ
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それからしばらくして病院へ通う頻度も減り、行列の伸びた奥村屋へ通う頻度も徐々に減ってしまった
行列の対応に追われ、つけ麺も週に一度だけの提供になってしまった。
だが、私の頻度と反比例するように限定メニューとして次々と新作が供されていた
クルマエビのスープの時もあればカキのスープの時もある・・・
マグロやカレイのスープの時もあったように記憶している・・・・
だが、訪問頻度の減った私が食べるのは定番の「中華そば」が多かった
相変わらずの茶濁のスープから濃厚な魚介の香りが立ち上るのだが、この頃は渡り蟹やえびなどの甲殻類の香りが強くなっていた
お店を訪問しても、対応に追われた店主と話をすることは無くなった
まさに一心不乱にラーメンを作り続けていた時期だったように思う
もしかするとこの頃既に体調を崩されていたのかも知れない
程なくして休業~閉店となったのは初めてお店を訪問して4年目のことだった
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体調を崩された店主
閉店も止むを得ないと思いつつ、いつか復活してくれるのではないか・・・
どこか心の中で願っていた
だが、松戸の同店のあった場所は既に別な店がオープンし、もはやあの味に再び出会えることは無いのだろうと思っていたある日
奥村屋復活!のニュースが飛び込んで来た
いてもたってもいられない
すぐさま食べに行った
とはいえ、心の奥底でどこか美化しているのでは無いか
そんな不安を抱えながら電車に揺られる
お店に到着すると懐かしい奥様の笑顔
自宅を改装した一室は、松戸のお店とは全く趣が異なっていたが、運ばれてきた中華そばは昔と変わらないフォルムだった
茶濁のスープに透明な油・・・
ナルトと卵の白さが目に飛び込んでくる
濃厚なとんこつのスープに濃厚な魚介の風味
化学調味料を使うのを完全に止めたそのスープの味はさらに数段レベルアップしていた
それでもやっぱり口の中に広がる複雑な味わいは奥村屋のその味だった
そして、開店直後の忙しい厨房から顔を出してくれた奥村店主
その時の笑顔も昔のまま・・・
美味しくて、懐かしくて、嬉しくて・・・・
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その後も数回足を運んだ
寒くなって来た頃訪問した時は甲殻類の風味を強めに調整していた
個人的には甲殻類を抑えた味が好きだったが、いつまでたっても味の研究を怠らない、妥協を許さないその姿勢は脱帽ものであった
麺は松戸時代は浅草開化楼の麺だったのを新柏に移ってからは自家製麺に切り替えていた
松戸時代よりやや細く薄く仕上げられたものだった
濃厚ながら繊細な味わいのこのお店にはとても良くマッチした麺だと思う
「麺作りにははまったねぇ・・・・思い通りに行かなくて、何度か生地を叩き捨てた。それでも面白くてね」
と子供のようにキラキラとした目で店主は熱く語っていた
病床にありながら、「麺はまだまだなんだよな」と語っていたことを思い出すと
志半ばの無念さがきっとあったことと思う
その、奥村さんの訃報が飛び込んで来たのは2006年6月4日・・・・
奇しくもちょうど1年前の2005年6月4日は新柏でのリニューアルオープンの日だった
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奥村屋のラーメンを言葉で表現しようとしても無理なことはわかっている
それでも、自分の為にも文字として残しておくことは意義のあることだと思いながらこれを書いている
私は残念ながら葬儀に参列することはできなかった
せめて、奥村屋さんのラーメンを一杯一杯、振り返ることで、奥村さんを偲んでみようと思った
もしかすると記憶違いもあるかもしれないし、思い込みで書いているところもあるかも知れない
どなたか間違いに気づいた方は遠慮無く指摘して欲しい
私なんかより、ずっと沢山奥村屋へ通われた方、
私よりずっと奥村屋を愛された方は沢山いらっしゃることと思う
それでも私にとっても特別な一杯だったので、最後に自分なりのお礼の
気持ちを精一杯込めて書かせていただきました
奥村さんの訃報を聞いてからそれこそ一行たりともブログが書けなくなった
自分なりにけじめをつける意味も込めてこの文章を書いている
奥村屋の記事はこれが最後になるだろう・・・・
奥村さん
ありがとうございました
そしてお疲れ様でした・・・・
「今日の一言」
想い出を
お箸の横に
そっと置き
本当にご馳走様でしたm(_ _)m