えー、過激な題名でスミマセン、過激商法です(爆)
…まぁ、そもそもは、自分自身に言った言葉なのですがねww
さて、心理学やセラピーやスピリチュアルな世界では、良くインチャ(インナーチャイルド)の話が出てきます。そして、「本当はあーしたかった、こーしたかった」とか「本当はそこで傷ついた」とか、自分の中にいる幼き日の自分をそう名付けして、あたかも、今、大人の自分が自己の中に抱えている暴れん坊将軍(古っ!笑)のように捉え、様々なメソッドを使いながら飴鞭で育てようとします。
が!そもそも、その頃の自分と今の自分ってそんなに違うんだろうか…?
「甘えたい」「褒められたい(認められたい)」
「でも、怒らせたくない(嫌われたくない)」「困らせたくない(迷惑かけたくない)」
「あれが欲しい!これが欲しい!」
「でも、失敗したらどうしよう!」「こわいよう!」
等々、
色んな彩りの、生々しい心の声があるけれど、今の子供たちも、今の大人たちも、スケールは違えど、大体似たようなものではないだろうか?(己の欲求に正直そうな子供たちでさえ、周りに一切気を使っていないなどと、ゆめゆめ思ってはいけない。そして、オトナなはずの大人も、結構ワガママで自己チューなところあるんじゃないんですか?笑)だから「インチャ(インナーチャイルド)」と名付けして、何か別に、困った愛らしい別人格が自分の中にいるように捉えることに、どうも違和感を覚えてしまうのです…
そもそも、生涯で人間が知れることなんて微々たるもの。だから、何か色々なことを「知っている」と虚勢を張ったり、「知っている」ことから平均値的な節度を守ったりすることが「大人」であると洗脳されてしまっている、私を含めた大勢の大人たちも、実は、心理学やセラピーやスピリチュアルな世界で「インチャ(インナーチャイルド)」と名付けられるものと、あんまり変わらないんじゃないかと思うのです。
誤解を恐れずに、ズバッと踏み込んで言うならば
「そのインチャというヤツも、今の自分じゃね?」
ってことである。
私のデザイナー友も言うように、人生のダイナミズムというのは、いつも想像の範疇の外からやってくるもの。それを楽しむ気概と姿勢こそが、本来の「大人」に求められることではないでしょうか。そして、インチャと称されるものと何ら変わりない、今「大人」の自分が、インチャと称されるものと少し違うのは、「大人」の自分は「子供」をもっと地に足がついた形で出来る「智慧」と「力(能力)」をつけることが出来る、ということだと思う。そういう意味で、本来「大人」というものは「子供のエキスパート」である、と以前言ってみたのです。「子供」である「大人」の自分は、「子供」である「子供」だった頃より、もっと上手く(巧みに)「子供」になれることだと思うのです。
(この「子供」という言葉に対する定義も千差万別ですが、ここでは友の言葉も借りて、<色々な思考や感情を持ち合わせた瑞々しい人間、「知らない」ことを楽しんで好奇心の旅に出かけることのできる人間、何も知らないから自分にも他人にも寛容になれるし、同じく何も知らない「他者」を過度に気にする必要のない人間>と定義づけておきます。)
インチャと称して、別に自分に内在してあるものと捉えるより、「自分はそのものでもある」と不二一元論(注参照)的に捉える方が、何だか、問題はもっとシンプルになる気がするのですよ…
まぁ、よくは分からないけどね(笑)
注:「不二一元論」は専門用語なのですが、シャンカラのそれではありません。もっと古いインド思想を表す用語ですが、説明すると長くなるので、また別の機会に。
…というか、言語化できないところに浮かび上がる思想なので、学者も長く苦しめられていて、なかなか文字面で説明するのが難しいというのが本音。
強いて言えば、「同じである」と「違うのである」という両極端(対極概念)が同居できる状態。パラドックス(矛盾)が成り立つ、ものの捉え方。














