いつもにまして、めっちゃ長いです。

 

2か月ぶりにしたためた

ニュースレターの一部を掲載しました。

 

茶道のことも千利休のことも

そんなに知っているわけではありません

(ほとんど知らないと思います)。

 

感覚的に捉えたことを書いているので、

認識違いもあると思います。

 

そこは広いお心でご容赦下さい。

 

* * * * * * * * *

 

題名に茶道めいた言葉を書き入れたも
のの、「茶道=わびさび」とか「茶道
=千利休」という以外、招かれた際の
礼儀作法のわずかを何となく聞き知っ
ているのみで、茶道の何たるかなんて
「さ」の字も知りません。

人生60年以上生きてきて、やっこらさ
で、花火の一瞬の光景の中に「序・破
・急」という三段階のリズムが潜んで
いることや枯山水の良さ・わびさびの
「わ」の字の書き始めの「|」の部分
が分かり始めたという、まこと恥ずか
しいレベルなのですが、モーツァルト
の音楽の世界の深さというのか超越性
を、何とか端的に伝える言葉はないか
と考えていて、ある日、唐突に茶道の
茶器のひとつである茶碗と結びついた
のです。

楽譜は、いわゆる、作曲家がアイディ
アを練るためのフィールドですから、
現代のシンガーソングライターもふく
めて、大抵の場合はピアノの譜面代に
五線紙を広げ、逐一音の構成に不備が
ないかなどを確かめながら時間をかけ
て書き込んでゆくか、机上で楽器を使
わずに脳裏に浮かんだのを書き入れて、
それでも最終的にはピアノで弾いて確
認をします。

もし不備や改良箇所が見つかったなら、
鉛筆書きをしている場合であれば消し
ゴムで消してしまえばこと足りますが、
バッハやベートーヴェンの時代、とい
うよりも、鉛筆や消しゴムが発明され
るまでは、インクと羽ペンなどを使っ
て書き込んでいたので、魔法のように
跡形もなく消して書き直せませんから、
修正された箇所はそのまま残されます
し、その箇所がかえって歴史的価値を
生み出すきっかけなったりもします。

天下のアイディアマンだったベートー
ヴェンですら、難聴というハンディを
克服して自らの音の記憶だけを頼りに
人類の遺産的な作品を残してくれたと
はいえ、その彼でさえも、作品を発表
してからも何箇所も修正を加えている
のです。

ところが、モーツァルトにはそれがな
いのです。脳裏に浮かんだときには脳
裏で完成されていて、それを楽譜とい
う形で「見える化」させるだけ。しか
もそれが完璧な形だというわけです。

「自分は音楽家だから、感情を音を使
ってしか表現出来ない」

このモーツァルトの手記が、ずっとワ
タシの脳裏に残っていて、もしかした
ら、

「自分の感情として脳裏に浮かんだも
のをそのまま書くことで、それが自分
の感情の表現となるだけ。つまり、あ
れこれと考えないで、感じたまま書い
ているだけだ。」

ということではないかと感じたのです。

モーツァルトの作品には演奏者しか分
からない共通するあることがあります。
それはピアノ奏者だけではなくてあら
ゆる楽器の奏者にも共通することなの
ですが、モーツァルトの書いた楽譜は、
時折、とても意地が悪いことです。

ベートーヴェンも大概意地悪な部分を
わざと残しているのですけれど、文字
通りの「わざと」なので、彼がそのよ
うにした理由は少し研究すればたどる
ことができます。ところが、モーツァ
ルトはそれができないのです。それで
も敢えて表現するなら、

「ボクはこんなこともできるんだよ。
ほら、こんな風にね。君には難しいか
も知れないけれど、ボクには簡単なこ
となのさ。君にできるかな?」

というように、ゲーテの言ったような
「悪魔」が顔を出すのです。それも、
演奏を聴く人々には、奏でられる音楽
が本当に美しく、しかも簡単に演奏す
ることができるような印象を与えるも
のだから、演奏者にとって小悪魔的で
余計にタチが悪い。でも、その反面、
そこに強烈な魅力を放つ怪しさがあり、
それに魅了された瞬間に永遠のファン
にさせられてしまうのですけれど。

ただし、これはほんの一角に過ぎない
のです。演奏から一旦離れて論理的な
目線で作品を分析してみると、その完
璧な構成に気づかされます。

すると、今度は小悪魔ではなくて悪魔
が現れて、「秘密」に気づいた人にだ
け、モーツァルト自身が示唆したよう
に「考えないで」思うがままに脳裏に
描いた唯一無二の姿を見せつけるので
す。

というように、いくら書いても、具体
的なイメージとして読む人に捉えても
らうことは難しいし、むしろ書くほど
に愚行を重ねるようになり、書き手が
伝えたいことからどんどん離れていき
ます。

それは、楽譜の特殊性から生じること
が大半を占めます。というのは、楽譜
を読める人は限定され、さらに読み解
くことができる人となると本当に限ら
れた範囲に限定されてしまうからです
が、それをもっと何か具体的な形で脳
裏に浮かべてもらえないかと考えたの
です。

茶の湯の大家といえば千利休というの
はご周知の通りですが、彼にはつぎの
ようなエピソードがあります。

茶の湯に客を迎えるために、招待主は
最低でも1週間前から取りかかること
があります。それは、空間作りです。
茶室という物理的な空間だけではなく
て、茶の湯を催す茶室に至るまでの通
り道、つまり門をくぐり抜けて建物に
至るまでの庭の整備にとりかかり、茶

道の精神は門をくぐり抜けた瞬間に始
まることを、言葉ではなくて空間が作
り上げる気の流れとして反映させてい
くのです。

つまり、客人には庭に足を踏み入れた
瞬間から凛とした気の流れを感じてい
ただき、客人もまた招待主の客人への
深い配慮を感じ取ることで、茶室に向
かう道のりで「完全なる会話」をする
のです。もちろん、無言で。それを促
すために、自らの心を作り上げるとい
う精神世界を客人へのもてなしという
行為の中で構築するのです。

 

利休も勿論そのつもりで入念に庭の手
入れをしたのです。そして客人を迎え
る当日の早朝に最終的な点検をしてい
るとき、落ち葉の1枚すらを残さぬよ
うに手入れをした庭を観て不自然さを
感じました。

庭という自然に似せた人工物を凛とし
た自然の空間にするために庭を手入れ
したとはいえ、落ち葉が1枚も残され
ていないのはかえって不自然ではない
かと感じ、取り集めた落ち葉の少しを
わざと庭に戻したのです。

凛とした自然林の中にある落ち葉は人
間が計算した上で存在するわけではあ
りません。偶然にそこに存在するだけ
です。人間が自然物に似せた庭という
人工物に落ち葉をわざと置くと仮定し
て、その「わざと」をいかにして「自
然の中の偶然」として反映させるか、
これは至極難しいことです。

偶然の大切さをあまりに強調しようと
すると、落ち葉を全て取り除くことが
できなくなり、そのような庭は野趣溢
れるという範囲を通り超えて、単なる
手入れが行き届いていない荒れた庭に
しかなりません。

これと同じように、器の欠けや歪みや
色の不具合は、焼いていく過程で窯の
中で偶然に起きたことです。この偶然
を逆に人間がわざとやってみるとどう
なるだろうかという発想です。

わざと欠けたように見せかける、わざ
と左右非対称にする、わざと奇異な色
にする。これらの「わざと」が窯焼き
を通して予想通りになってくれるとは
限らないし、むしろ「味わい」などと
は程遠い結果が待っているかも知れま
せん。そこで、それらが必ず「味わい」
として現れるようにするたの「必然」
が必要となってきます。そのためには
挑戦者は数え切れないくらいの失敗を
繰り返さねばならないわけです。なぜ
なら、その失敗の中にしか必然性がな
いからです。

西欧の美はシンメトリーにあります。
完璧なシンメトリーこそ美しいし、黄
金比率がふくまれていればなお良しと
する。ところが日本の美的感覚はこれ
のみを良しとしない。むしろそれは無
機質で退屈でもあると捉えるのです。

茶器の器も、先ほどの利休のエピソー
ドと重なるところがあります。窯で焼
いた後、取り出してみたときに茶碗の
一角が欠けていれば、大抵の場合はど
うでしょうか。

日常生活で使う陶磁器に欠けが生じた
ら、それはその瞬間に商品価値を失い
ます。それは茶器の器でも同じなので
すが、その欠けたる場所が絶妙であっ
た場合は「味わい」として捉えること
はできないか。あるいは、発色の不具
合や、作り手が予想だにしていない発
色が生じた場合でも同じで、不完成品
として捨てるのではなくて、むしろ欠
けや歪みや発色の不具合を「味わい」
として視点を変えれば、そこに新たな
美の世界が生まれるのではないか。こ
れが日本の古来からの美的感覚だとい
われています。

 

話題をモーツァルトの作品に戻します。
もうお分かりいただけましたか?

モーツァルトの作品には窯焼きのとき
の茶器の器に起きた偶然性があるので
す。モーツァルトは自分の心の表現と
して、その時々にしか感じない瞬間の
感情を思うがままに作品として書き残
したのです。そのときの瞬間の感情な
ので、日を経ると思い出せなくなりま
す。その作品をそのときとは異なる今
の感情で書きなおせば、そのときの偶
然性は即座に失われる。だから修正も
しないし、第一、修正する必要のない
完全体なのです。

あるとき起きた偶然性を再現するため
には、数え切れない失敗を通してその
中に潜む必然性を見つけ出さない限り
人間には偶然を作り上げることはでき
ません。モーツァルトは若くしてこれ
を瞬間に生み出せて、しかもその作品
のほとんどが完璧なのです。

その誰にでもすぐに口ずさめて
決して

忘れさせない美しいメロディは、誰で

も真似ができそうなのに、それを真似

ようとした人を失敗させてしまう。


小悪魔は今日もまた挑戦者を募り、彼
らを嘲笑(わら)うのです。

 

 

 

 

 

 

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