久々に音楽ネタを・・・。

出始めが恐ろしく難しい曲
というのがあります。

第1音をどんな音質で発し、
第2音以降をどのような速さで
引き継いでいこうか・・・。


脳内でかなり強くイメージし、
確固たる信念で
演奏を始めようとするこちらの想いを
第1音を発した瞬間に
見事に裏切られるのです。

自分の脳内で築いた
いわゆる自分が理想とする
鍵盤を触れるときの指の位置や
手の形がまるで違っていて、
その結果として音の質もまるで違う。

かつて、
アルトゥール・ルービンシュタインと
比べられることが多く、
「双璧」と称され、
その卓越した技術と
独特の演奏スタイルから
「悪魔のピアニスト」とまでいわれた
天才ピアニストがいます。

ウラディミール・ホロヴィッツです。



※ アルトゥール・ルービンシュタイン

 

※ ウラディミール・ホロヴィッツ

 

 

そのホロヴィッツが9年間悩んだのが
ベートーヴェン作曲の
ピアノソナタ第23番ヘ短調、
いわゆる『熱情』です。



※ 『熱情』の冒頭部分。

当時のベートーヴェンが所有していたピアノの

最低音から最高音まで

鍵盤上で音を「駆け巡らせる」難曲です。

 


シェイクスピアの名作『リア王』から
インスピレーションを得て作曲された
といわれています。


*****************
ブリテンの老王リアは、
王位を退くにあたって、
3人の娘のうちで孝行な者に
領地を与えると約束する。

甘言を弄した長女と次女に領地を与え、
素直な物言いをした三女を
怒りのあまり追放してしまう。

しかし、信じて頼った長女と次女に
裏切られ、流浪の身となる。

やがて三女の真心を知り、
フランス王妃となった彼女の力を借りて
2人の軍勢と戦うも敗れ、
三女は処刑、
狂乱と悲嘆のうちにリア王も没する。
(ウィキペディアより)
*****************

この老王リア王の
全身からみなぎる怒りを、

「フォルティッシモではなくて
 ピアニッシモで表現させることで、
 その怒りの大きさと深さを表現せよ」

という命題を演奏者に突きつけてくる。
これが『熱情』の冒頭部です。

 

これは今は亡き東京ご在住だった

大師匠から徹底的に

教えていただいた部分です。

もっとも、『熱情』に関しては、
第1楽章の冒頭部のみならず、
演奏者を随分と悩ませる場所が
本当に多くて、

ことに第1楽章の最終部分を終え、
ダンパーペダル(右ペダル)を
ゆっくりと解除しながら
鍵盤から指を離してもなお
演奏者だけでなくてオーディエンスも
巻き込む形で
その張り詰めた緊張の余韻が
しばらく支配するのです。

演奏者が最も大変なのだけれど、
聴く側にも聴く姿勢とか
心構えを要求するという点では、
あくまでもオーディエンスを
楽しませることに徹した
モーツァルトとは大きく一線を画すのが
ベートーヴェンの作品の特徴です。

ここまでは例によって
長ったらしい前振りです。

時代をさかのぼります。

本当に悩まされた曲があるのです。
聴衆にとっては
めちゃくちゃカッコイイ曲なんですが、
演奏者側からすると、
本当に悩ませてくれる作品です。

極端なことを申しますと、
第1小節を理想通りに演奏できれば、
ホッとしながら
演奏を進めることが出来る作品。

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲の
『半音階的幻想曲とフーガ』です。

バッハのチェンバロ曲の中でも
最も人気のある名曲のひとつですが、
聴くと弾くとでは大違いという作品で、
ピアノを学ばれている人にとっては
フーガのほうが
アタマの痛い話

ではないかと思われます。

で、当時のワタシはというと・・・


「フーガはまだナンとかなるのですが、
 幻想曲の出始めをどうすれば良いのか
 見当もつかないのです。」

と、当時の大阪の師匠に訴えますと、

「同じような音型を頭の中で奏でて、
 その流れを脳内に作ってから弾くと
 始めやすいのではありませんか?」

という答えを返して下さったのです。

それで帰宅して
試してみたのですけれど、
よくよく考えてみれば、

「同じような音型を頭の中で奏でて、
 その流れを脳内に作ってから弾く」

というのは、下世話な言い方をすれば、

「ノリで弾き始めなさい。」

と言われたような気がして、
失礼ながら、

「ああ、師匠も分かってはらへん
 (分かっていらっしゃらない)やん」

ということで、当時のワタシの疑問は
振り出しに戻ってしまったのです。

で、あろうことか、
ここで国語読解が登場するのです。

『半音階的幻想曲とフーガ』ですが、
聴くにはカッコイイのです。
でも、いざ演奏する、
それもレッスンではなくて
人前での演奏を敬遠するパターンが
当時のワタシ(20年ほど前)の
周囲にいる、いわゆる、かつての
大学の同期生のおおよその言動でした。

なので、

「おまえ、ナンで敢えて
 これを人前で弾くの?」

だったのです。

この「敬遠」の視点は
「幻想曲」の方ではなくて
「フーガ」のほうにあります。

もし途中で演奏を間違えて
止まってしまったら、
途中からは始めることが出来ない。

フーガを演奏する際に、
常につきまとう恐怖感だったからです。

でも、これに関しては
ナンの心配もありませんでした。

答は単純です。
練習中にわざと間違えて、
そこから弾き始める練習をすれば
良いだけですから。

それと、
塾屋稼業を始めて34年になるので、
20年ほど前であっても
同じ塾屋稼業をしていました。

生徒さんの前で数学を教えていて、
もちろん自身の学生時代の不勉強を
反省しながら、
中学校レベルの数学からやり直す
という生活パターンから、

論理的に作曲されている完全体のような
バッハのフーガは、
数学的な論理の設計図のように
感じていたので、
「もし途中で間違えたら・・・」
という心配がなかったのです。

曲の構造を論理的に理解出来ているので
その通り演奏すればなんてことはない。

これが当時のワタシでしたし、
もうピアノ弾きから遠ざかって
何年にもなりますが、
この感覚は今でも変わりません。

それよりも、
「幻想曲」の冒頭部分です。

答えが出たのです。
それも今更。

冒頭部分に休符があります。
(四角で囲んだ部分)



※ 『半音階的幻想曲とフーガ』の冒頭部分

 

第1小節目は32分休符で、
第2小節目は16分休符になっています。

この違いはナンだろう?

バリバリのピアノ弾きのときには
何も気にならなっかのです。

曲の続きならまだしも、
これから始めるのに
ナンで休符なんかがあるのだろう?

とは思っていましたが
「変なの・・・」という
認識でしかありませんでした。

答の元となったのは、
ベートーヴェン作曲の
交響曲第5番ハ短調、
いわゆる『運命』といわれる作品です。

(『運命』という俗称が通じるのは
 日本だけです。
 欧米でこれを発すると
 恥をかきますので要注意。
 音楽の教科書からやっと「運命」の
 文字が消えました。やれやれです。)

冒頭部に休符があるのです。
文字で書くとこんな感じです。

「タタタ/ターン」ではなくて、
「『ン』タ/タタ/ターン」。

この冒頭部の休符に、
指揮者もオーケストラ員も
どれほどの緊張と集中を強いられるか。

これが演奏者に突きつけられた
ベートーヴェンの命題です。

「幻想曲」も同じだったのです。

第1小節の冒頭部分は32分休符なのに、
第2小節の休符は冒頭部の
2倍の長さになっているのはなぜか?

短い方が緊張感がいる。
本来ならすっと音を発したい。
その衝動をたった一瞬だけ辛抱し、
グッと気合いを入れる。

この一瞬の気合いが
第1音に勢いをつけるから、
その間合いをしっかりつかめば、
第1音の音質とか、
第2音以降につなぐ速さなんて
考えなくても、
楽譜が勝手にやってくれるのです。

これは数学で言うところの
文字式を使って証明するのと同じです。

証明するための式を立てさえ出来れば、
あとはその文字式に任せれば良い。

もしそれで証明できなければ、
その式に間違ったところがある。

おっと、その前に、

第1小節目は32分休符で、
第2小節目は16分休符になっているのは
どうしてだろう?

ということに答えを出さねば・・・。

第1小節目を
無事に始めることが出来たら、
第2小節目の休符部分では
短いとはいえ
第1小節目の冒頭とは異なる、
今度は気合いではなくて、
やや深く呼吸することで
間合いに変える。

バッハの思惑にほんのわずかだけ
近寄れたかな・・・。

この「どうしてだろう?」という疑問。

今までもずっと目にしていた
ほんのわずかな
32分休符という「隙間」に
初めて向き合ったことで
生まれた気づき。

この気づきをくれたのは
紛れもなく国語読解指導の
たまものなのです。

 

きっと分析脳が育まれたのでしょう。

この答えにたどり着くのに
20年もかかりました。

つくづく頭が悪いと痛感します。

 

『半音階的幻想曲とフーガ』

に関しては、

まだ解決されていない

大きな悩みがあります。

 

そのお話はまたの機会に・・・。

 

 

 

 

 

 

 

※小冊子「国語の隙間」・

「ニュースレター」・

国語読解のニュースレター」を

プレゼント中です。

 

ZOOM遠隔授業のご相談も、どうぞ。

 

気になる親御様は、今すぐ、

下の塾のバナーを

クリック(タップ)なさってください。