曲の終盤に鐘と大砲が登場する。
そんな楽曲があるのをご存じでしょうか。
クラッシックファンであれば、
「ああ、あの曲ね」
そうでない人からすれば、
「え? あり得えへんやん?」
大序曲『1812年』
作曲者はチャイコフスキー。
本当に嫌々作ったというのは
彼の伝記で何度も目にしていましたが、
書籍やWikiで再確認したら、
「そこまでイヤなんやったら、
断ったらエエやん?」
もう150年ほど前の遠い異国の他人事に
届くはずもない突っ込みを
思わず発しながらも
「ホンマにイヤやったんですね・・・。」
と、同情してしまうほどなのです。
はじめよければ事半ばなる。
その逆も然り。
1861年に創設された
音楽出版社ユルゲルソンの創設者である
ピョートル・ユルゲルソンから
1850年の5月末に1通の手紙が
チャイコフスキーの元に届けられました。
Wilkiよりお借りしました。
※ ニコライ・ルビンシテイン
ウェブからお借りしました。
「あなたの親友である
ニコライ・ルビンシテインが
将来開催される産業博覧会の音楽部長に
任命されたのですが、
そのルビンシテインから式典の曲を
あなたに作ってもらいたいという
依頼がありました。」
というような内容でした。
ちょうどそのときは、
バレエ『白鳥の湖』や
オペラ『エフゲニー・オネーギン』という
大作の作曲のあとで、
精も根も尽き果てていたような
時期でもありました。
オペラ『エフゲニー(エウゲニ)・オネーギン』
プーシキン作『オネーギン』をもとに
チャイコフスキーが作曲した。
チャイコフスキーのパトロンだった
フォン・メック夫人(当時のロシアで
最大の鉄道会社を持っていた資産家の
未亡人)と14年間にわたった
1220通にのぼる手紙のやり取りの中で、
「私の発想の泉が涸れてしまいました。」
というのをたびたび発しているのですが、
正にその時期にいきなり飛び込んできた
オファーでした。
ただ、手紙の内容が
あまりにも漠然としていたので、
報酬の金額が具体的に書かれていない。
期限が書かれていない。
声楽曲を入れるのか書かれていない。
形式や背景について曖昧にせず
きっちりと記すべきだ。
というように、ユルゲルソンの手紙の不備を
よほど不愉快に感じたらしく、
数々の不満を連ねて返信しました。
親友のニコライは
常に周囲に何人かの取り巻きがいて、
酒好き・女好きで賭け事が大好きで、
夜な夜な遊び歩いている人でしたが、
ピアニストとしての技量は超一流で
モスクワ音楽院を創設し経営するという
人物でもありました。
一方のチャイコフスキーは、
酒は好んで飲んだらしいけれど、
気難しくて神経質で几帳面で、
旅行好きが転じて放浪癖さえある、
むしろ独りでいることを好んだ人でした。
ニコライはチャイコフスキーの才能を
高く買っていて、
モスクワ音楽院の教授に就任させるなどして
生活に困らないように配慮していましたが、
チャイコフスキーにとっては
むしろ高圧的で支配的に感じていたのか、
「私は、指揮棒1本で
君が思い通りに動かせる
オーケストラじゃないんだ。
私は私だ。君の思い通りには動かない。
不愉快だ!」
と言って、口論をよくしたそうです。
チャイコフスキーにしてみれば、
ニコライ自身から
依頼の手紙をよこすならまだしも、
ユルゲルソンを使って、
しかも漠然とした内容で送ってきたことや
手紙の内容から、
否応なしに引きずり込まれるような、
ニコライの策略のようなものを
感じたのかも知れません。
ユルゲルソンを介しての依頼だったとはいえ、
日頃から何かと世話になっている
ニコライからの依頼ということで、
声楽曲にしようという青写真を持ち始めていたのか
ユルゲルソンに古典詩の本を送ってくれるように
彼から手紙を出しています。
その後、ニコライから届いた
正式な依頼の手紙には、
「15分から25分ほどの曲を望んでいる。」
という具体的な希望が書かれていました。
パトロンのメック夫人への手紙には、
「凡庸なものあるいは騒々しいもの以外に
何が書けるのでしょう?
しかし、依頼を断る気にもならないのです。」
彼の弟であるアナトーリーには
「ニコライからの依頼が重荷になっているが、
責任は果たさなければならない。」
と書いた手紙を送っています。
それ以外にも
作曲の合間を縫って盛んにやり取りしていた
フォン・メック夫人への手紙の中には、
かなりな愚痴を書いていたようです。
下の写真をタップ(クリック)していただくと、
手紙のことの詳細が書かれたサイトに飛びます。

※ ウェブからお借りしました。
ナジエージダ・フィラレートヴナ・フォン・メック夫人と
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
ニコライから正式に依頼を受けたのが
9月だったのですが、
10月には後に名曲となる
『弦楽四重奏』を作曲していて、
並行する形で、
依頼は11月に完遂されています。
2日に1通のメック夫人への手紙を書いていた
筆まめなチャイコフスキーにとっては
とても忙しい時期だったでしょう。
ところが、1881年に開かれる予定だった
博覧会式典は中止されてしまい、
不幸なことに、依頼者のニコライが
45歳という若さで
急死してしまったのです。
困ったのはチャイコフスキー。
この曲をどうすれば良いのか
もてあますことになります。
その後、当時の名指揮者
ナプラブーニク初演の依頼をするも、
「時期が早すぎるから、
もう少し待った方が良い。」
という理由を付けられて
突き返されます。
1882年に改訂を行い、
イッポリト・アリターニ指揮によって
初演されたものの、
当時の新聞では凡作だと批判され、
当初チャイコフスキー自身が
予想した通りなってしまいました。
その後、1883年にはニコライの兄
アントン・ルビンシテイン指揮で
サンクト・ペテルブルクで初演され、
更に、バラキレフ指揮によって
スモレンスクで初演されましたが、
鳴かず飛ばずの状態が続きました。
ウェブからお借りしました。
ところが、1887年、
チャイコフスキー自身の指揮によって
サンクト・ペテルブルクで再演されたとき
大成功を収めます。
最初は嫌々で作曲したチャイコフスキーも
この大成功には大満足したそうです。
その後、ベルリン、プラハを経て
アメリカで演奏されたのが1893年。
こうやって、
世界の人気曲になっていきました。
彼が書いた総譜の終盤には
「大砲(cannnon)」という指示が
彼の手によって書き込まれています。
彼の生前に実際に大砲が使われたかどうかは
実は、定かではありません。
その後、屋外で演奏される際には
実際に教会の大聖堂の鐘と
大砲(空砲)が使われ、
ホールでの演奏のときは
教会の鐘の代わりに
チューブラー・ベルが使われ、
大砲は屋外で
タイミングを合わせて使われたりします。
ウェブからお借りしました。
最近では鐘はチューブラー・ベル、
大砲は大太鼓で代用することもあるようです。
ウェブからお借りしました。
チャイコフスキーが
メック夫人の手紙で書いたように
クライマックスは「騒々しい」けれど、
冒頭部分は
ナポレオン軍との戦いに勝利を祈る
正教会の聖歌「神よ汝の民を救いたまえ」
荘重で格調高い雰囲気を醸し出しているし、
中盤辺りではいよいよ
ナポレオン率いるフランス軍との戦いの様子を
フランスの国歌とロシア帝国の国家が
巧みに絡み合わされ、
やがてはロシア帝国の国家が優勢になることで、
高らかな勝利の宣言へと紡いでゆくあたりは、
チャイコフスキーらしさが現れています。
その後、ソヴィエト連邦になったとき、
ロシア帝国国家は
ソヴィエト連邦国家に差し替えられるなど
変遷を踏みながら、
現在は原典に戻されています。
現在でも専門家の評としては、
いわゆる
「チャイコフスキーがシャレで作った」
と言われることもあり、
チャイコフスキーの作品全を通して
たびたび指摘される
「親しみやすいが凡庸である」
というように、
けっこう厳しい論調を
目にすることも少なくありません。
しかしながら、
インパクトはすごいので、
クラッシック音楽を聞き慣れていない人にも
お薦めできる作品ではあります。
久し振りに塾舎で業務終了後に
YouTube動画で聴いていたのですが、
「景気づけにはピッタリだな」
と思いながら、
ひとりニヨニヨしておりました。
・・・なんてことを言ったら
チャイコフスキーさんに叱られそうですが、
今なお人気曲であることについては、
苦笑いしているような気がしないでもありません。
生徒さんにぜひぜひ聴かせてあげたいな。
12:35辺りからボリュームにお気をつけください。
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