『ラプソディ・イン・ブルー』
『ヘ調のピアノ協奏曲』
『キューバ序曲』
『パリのアメリカ人』
『アイ・ガット・ザ・リズム』
『サマータイム』

といえば、アメリカの作曲家ジョージ

・ガーシュウィンが残した名作です。

ジョージ・ガーシュウィンはペンネー

ムで、本名はジェイコブ・ガーショ

ウィッツ(Jacob Gershowitz)。



※ ジョージ・ガーシュウィン

ネットからお借りしました。

 

父親はロシアから、母親はベラルーシ

からの移民で、ニューヨークのブルッ

クリン生まれ。

アメリカへ移住した当初はロシア名の

発音通りゲルシェヴィチと名乗ってい

たのを、ガーショウィッツと変えてア

メリカ人として帰化しました。

「父親はジョージが12歳の時、兄の

アイラに音楽を学ばせようとピアノを

買ってやったが、文学肌のアイラがピ

アノを弾かなかったため、代わってジ

ョージがこれに親しむことになり13

歳の時から正式にピアノを習い始め、

また、ヘンリー・カウエルに和声を習

うようになった」(ウィキペディア)

となっています。その通りで、兄弟で

仲が良く、オペラ『ポーギーとベス』

の作詞をはじめ、彼が作曲した歌曲の

歌詞のほとんどが兄のアイラ・ガーシ

ュウィンによるものです。

彼は15歳の頃、ティンパンアレーで、
楽譜を見るだけでは実際はどのような

曲なのか分からない(楽譜を買いに来

る)客を相手に、客から手渡された初

見の楽譜を前にピアノで弾いて紹介す

るという仕事をしていました。

ティンパンアレーとは、「19世紀末か

ら20世紀初頭にかけて、アメリカのポ

ピュラー音楽界を牽引した、ニューヨ

ーク市マンハッタンの28丁目、ブロー

ドウェイと6番街に挟まれた一帯を指す
名称です。

当初は、この場所に集積した音楽出版社

や、そこで生み出された音楽そのものを

指す言葉として使われました。」(サー

ドペディア百科事典)

と書かれているように、ニューヨークは

パリに代わる当時の世界情報の最先端

発信地で、音楽もまた例に漏れず、あら

ゆる分野の作品の発信地となっていまし

た。

クラッシック音楽で有名なのは、チャイ

コフスキーが、若きピアニストであった

ビューローの演奏で、後に不朽の名作と

なる『ピアノ協奏曲第1番変ロ短調』が
ニューヨークのカーネギーホールから世

界へ発信されましたし、

もう少し後になって、こちらも不朽の名

作となるラフマニノフ作曲『ピアノ協奏

曲第2番ハ短調』が、当時の名画であっ

た『逢い引き』のラストシーンに起用さ

れたのをきっかけに世界中に発信されま

した。

ただ当時はレコードがまだ高価で買えな

かった人が多かったため、楽譜を買い

来た客に試演をして聞かせるという仕

があったのです。


ジョージはここで、当時の流行歌やジャ

ズに触れて、当時の世界最先端の音楽的

感覚を身につけていきました。

ジョージ・ガーシュウィンの作品に共通

して言えることは、洗練された華やかさ

でしょうか。

ニューヨークの摩天楼の夜景を鳥瞰して

いるような、都会的でキラキラしていて
派手なようで華美になりすぎない制御感

があり、そこに知的センスが溢れている

のです。

そしてどこかジャズ的であるのですが、
あくまでも楽譜があって、それにのっか

る形でのアドリブは許されるという自由

さがあります。

もちろん、現代ではジャズセッションと

して起用される際には、アーティストに

よるアドリブが行われます。

このようにクラッシック分野に根を置き

ながら、ジャズとの融合をはかろうとす

る分野をシンフォニック・ジャズといい

ますが、融合までには至らず、「試作段

階」で、アメリカでは一時期途絶えてし

まうのです。それは、ジョージ・ガーシ

ュウィンが1937年に39歳という若さで
脳腫瘍で亡くなってしまったからです。

ところが、このガーシュウィンがなくな

った年に、旧ソヴィエト連邦で生まれた

人が、偶然にもシンフォニック・ジャズ

を確立させることになるのです。

ニコライ・ギルシェヴィチ・カプースチン
(カプスーチン)

 

※ ニコライ・キルシェヴィチ・カプースチン(カプスーチン)

ネットからお借りしました。

 

現ロシアのウクライナ出身の作曲家であり、
ピアニストでもあります。

ウィキペディアにはその他にも「ミュージ

シャン」という肩書きが加えられているの

ですが、それは、2020年まで存命してい

て彼の自作自演のCDが発売されているこ

とと、1950年代初頭には、ジャズ五重奏

団を結成し、モスクワのレストラン「ナシ

ョナル」で毎月演奏していたというように、

ライブ演奏家としても活躍していたからで

す。

ソヴィエト政権が崩壊したあと、ジャズが

気に現ロシア連邦共和国にも流れ込み、

カプースチン(カプスーチン)は時の人と

なりました。

彼の作品の中で特に有名なのは『8つの演

奏会用練習曲』で、現在も楽譜は売れ続け

ていて、時には品切れになるほどの人気を
博しています。

 

 

ガーシュウィンの死後、シンフォニック・

ジャズとしてではなくて、違った形で彼の

遺志は受け継がれています。

それは、作曲形式は古典的であっても、従

来の和声感覚の破壊を起こし、新しい響き

を作りあげるというものです。

でも、完全に破壊するのではなくて、ドイ

ツ的、フランス的な古典的和声は残しつつ

も、現代的な和声の「半破壊」をさせる響

きを取り入れるような形です。

現在ワタシが気に入って聴いているフラン

シス・プーランクの作品は、正にフランス

的な響きで行われています。



※ フランシス・プーランク

ネットからお借りしました。

 

 

東西冷戦でチャーチルが言うところの「鉄

のカーテン」の向こうでも、いわゆる自由

主義陣営の「こちらの世界」でも、音楽の

世界ではほぼ同時に古典的な形式から脱し

て、和声的にも構造的にも新たな自由を探

り始め、その段階としてジャズとの融合が

なされたというのは、本当に不思議なこと

です。

「音楽は国境を越える」というのはよく耳

にする言葉ですが、国境どころか政治体制

や政治思想ですら関係がないように、ほぼ

同時的に新しい動きが起きているのはすご

い偶然だと感じます。

だって、その時代には今のようにインター

ネットもないし、もちろん、Youtubeはお

ろか、SNSという概念すらなかったのです

から。

カプスーチンいわく、
「私の作品はあくまでも楽譜に基づいてい

ます。まるでアドリブのように聞こえると

ころもありますが、厳然たる楽譜があるの

です。ジャズのように完全に自由なアドリ

ブの部分はあえて設けないようにしていま

す。」

ガーシュウィンさん、ニコニコしながらこ

の様子をご覧になっているとイイですね。

 

 

 

 

 

 

 

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