小学四年生にして今更だが、娘が自転車に乗れるようになった。

自転車を買い与えたのは5歳の頃だったと思うが、これまでほとんど使っていなかった。手軽に練習出来なかったせいだ。

わが家はマンションで、一階に駐輪場があるが、大量に置かれた不要自転車のせいで空きスペースがなく、娘の自転車を並べられなかった。

やむなく自室の玄関前に自転車を置いた。しかしいざ使おうと思うと、マンションの廊下を運び、エレベーターで一階へ降ろさねばならない。これがなかなか面倒で、何度か試したものの長続きしなかった。結果、自転車は玄関前に放置されたままになった。

そのまま4年程が過ぎて、自転車は錆びつき、日に当たって退色し、みすぼらしくなった。

ところがこの春、不要自転車が一斉処分され、駐輪場に十分なスペースができた。早速良い場所を確保し、みすぼらしい自転車を置いた。これで、乗りたいときにはすぐに乗れる。にわかにヤル気が湧いてきた。

「練習してみる?」と娘に持ちかけたら、
「やる!」と、前向きな答えが返ってきた。

家のすぐ目の前が公園で、舗装された遊歩道は、自転車で走るのに丁度よい。先週日曜日、半日程練習してみたら、おっかなびっくりではあるが、何とか乗れるようになった。

が、問題はみすぼらしい自転車である。玄関前で4年も日に当たり続けた自転車は、プラスチック部分が紫外線で劣化し、少し触るだけでパキパキと割れるようになっていた。



これが何かというと



前カゴのカケラである。家を出たときには完全なカゴの形をしていたが、少し触ると割れ、自転車を倒すと盛大に割れ、わずかな時間でみるみる欠け落ちてこうなってしまった。

折り悪く、たまたま娘の同級生が公園に来ていて、出会ったそばから、

「ボロボロ!」

と容赦ないツッコミをしてきた。

これには訳がある。自転車自体、今さっき初めて乗れるようになったばかりだ。自転車がボロいのも今日、数年振りに引っ張り出したからで、普段から何も気にせずこのボロ自転車に乗っていたわけではない。今日、今この瞬間、たまたまなのだ。

安いサンダルを、たまたま今日だけ履いていたという、ユーミンの「DESTINY」の一節を思い出すモヤモヤである。

などと言っても通じないだろうから、もちろん言わない。
しかしつい、つぶやくように娘に言ってしまった。

「何だかなあ。新しい自転車買おうかね。」

「ホント!?」

娘がにわかに色めき立った。

しまった。つい口に出してしまったが、いくらなんでも今が買い時ではない。大体この自転車は、合わせて10回も乗っていないのだ。もったいなさ過ぎる。

「ちゃんと乗れるようになったらね」

「乗れるようになったよ」

「だから『ちゃんと』だよ」

乗れる、乗れないで言えば乗れるようにはなったかも知れないが、まだとても公道を走れるレベルではない。

「『ちゃんと』ってどれくらい」

「外の道を走って、一人で公文教室に通えるくらいかなあ」

「外の道はいつから走れるの?」

なかなか難しい問題だ。どうなったら外の道を走らせて良いのだろう。

「とりあえずこの遊歩道を一周、途中で足をつかずに走れるようになってからね」

少し走っては足を着いていた様子を見て、まだしばらくかかるだろうと高を括っていたら、その日の午後には、ほぼ一周、くるりと回れるようになった。200mくらいだろうか。曲がりも多いし、歩いている人とすれ違わねばならないし、数分はかかる距離なのだが。

「出来るようになったか。じゃあ少しずつ道を走ってみるか。パパに付いてきて。」

自分も自転車に乗って先導し、公園の周辺の道に出ようとした。が、どうも具合が良くない。

自分が前を走っていると、後から娘が付いてきているか分からないのだ。そこで、娘に前を走らせて、すぐ後ろから見守ることにした。

「いいか、あそこの標識のところまで走って、一旦止まるんだぞ」

少しずつ指示しながら後ろを付いて走る。自分が自転車に乗り始めたときはどうだったろう。確か近所の年上の友達に連れられて、遅れないように必死に後ろを走った気がする。少なくともこんなに丁寧に教わった記憶はない。

前を走り、背中を見せて学ばせるか、後ろから見守るか。

何だか教育論の縮図のように思えなくもなく、意外に深い問題なのかも知れないと、どうでもいいことを思った。

娘が一人で公道を走れるようになるには、もうしばらく時間が必要だろう。

そうなったときには、ろくに使わなかった自転車を、年数が経過したという理由だけで買い替えるべきなのか、もう一度考えねばならない。

このムダ感。ろくに使っていない自動車保険を、時期が来たという理由で更新しなければならない、あの感じに似ている。乗った分だけ保険料を払いたい。このボロ自転車は、せいぜい2,000円分くらいしか乗っていない。代金を返して欲しいところである。

まぁしかし、次に買う自転車は、さすがに使えると思う。未来への投資か。これも教育論と思うことにするか。

新年度、自転車に乗った4年生の娘が楽しく過ごせますように。