車で道を走っていると、亡くなった妻の想い出が蘇ることがある。あのお店よく一緒に行ったな、などといった感じで、目に入る街並みから記憶が呼び起こされるのだ。

最初、それが辛い時期があったが、いつからか湧き上がる気持ちを短時間で抑えられるようになった。想い出が湧いてきたときに、うん、うん、うん、と気持ちを鎮めると、しばらくで平静に戻ることができる。

道を進んで次の信号に差し掛かるまでには大体、気持ちが鎮まるので、その間10秒くらいだと思う。短か過ぎると言われるかも知れないが、よく言う、6秒待てば怒りをコントロールできるという話しに似ている。案外、人間の心に吹く嵐のようなものは、そのくらいの時間で、一旦は風速を収めることかできるのではないか。

もちろんその後も連想が続いたり、気持ちが引っ張られたりすることはあるが、嵐のような風速が一時間も続くことはあまりない。そうでなければ日中の仕事も何も手に付かなくなってしまうだろう。

例外的に、夜、布団の中でモヤモヤと長い時間考えることはあるが、とにかく昼間に湧き上がった一瞬の嵐は、うん、うん、うんで飲み込むことができる。いつの間にかそのコツを覚えたように思う。

昨日、その妻の初盆法要を済ませた。その際、お寺さんから法話があったのだが、実はそれが、僕にはどうにも理解できない内容だった。今も心の中で持て余しており、これは10秒で収まるものではないので、そのことを少し書いてみたい。

僕の家の宗派は、亡くなった親父の信仰に依っており、少し特殊だ。仏壇や墓、法要の作法なども独自のところが多い。

例えば、仏壇の中に故人の位牌や写真を置かない作法にしていることなどがある。昨日の法話は、そういったことに関わる内容だった。



亡くなった人を、神だ仏だと祈願の対象にしてはいけない。

供養の気持ちを持つことは大切だが、信仰の対象にするのは誤りだ。それは一見、善業に見えるが、愚業である。

人は、亡くなったからといって即座に悟りを開くわけではない。例えば、昨日までの詐欺、強盗犯が、亡くなった途端に悟りを開いて、現世の人々の願いをきく慈悲深い存在に早変わりすることはあり得ないし、他の人の運命を変えたりできるような力を持つとも考えられない。

だから、亡くなった人を信仰対象のようにして願いをかけたりするのは誤りだ。

亡き精霊の意向は、根本の仏を祈ることである。根本の仏、ご本尊に向けて読経することで、その功徳が巡り巡って、故人にも行き届く。(これを「回向」と呼ぶらしい。)

だから、故人を拝むのでなく、ご本尊へ読経しなさい。



大体そういう内容であったように思う。
小学3年生の娘は、後で端的に、

「ママにお願いしちゃいけないの?」

と尋ねてきた。僕は答えた。

「今の話は難しい作法のことだから気にしなくていいよ、お願いはみんなママにすればいいからね。」

法話の内容は、論理的で意味合いとしては理解できるが、とても自分の気持ちに沿うものではない。僕は、正しい信仰を身に着けたいわけではなく、亡くなった妻を供養したいのだ。

法話に関してツッコミを入れるとすれば、亡くなった人が即座に悟りを開くわけではないのと同様、亡くなった途端に宗派の思想を完全に理解することもないだろう。故人の意向が、根本の仏に読経して欲しいことであると何故わかる、娘の願い事を聞きたい意向かもしれないじゃないかと…まあ、そのように言うこともできる。ツッコミというか、くだらない揚げ足取りに近いが。

それから、根本の仏に読経をして回向を巡らせるというような高度な技は、プロのお寺さんでしてもらえないものだろうかという気持ちもある。僕や娘には、普段、仏壇に手を合わせて線香を上げることくらいしかできないし、法話のような理屈を娘に強制したいとも思わない。

哲学としての仏教には興味があり、読ませていただいているブログもあって、彼女ともよくそのブログについて話題にしたりしているのだが…

親父の選んだ宗派は、なかなか難儀だなというのが率直な感想だ。この記事、読む人によっては、批判けしからんという内容かも知れないが、法話を聞いて悲しい気持ちになったと言う単なる個人の感想で、信仰云々に及ぶような大袈裟な話ではないつもりでいる。

信仰する立場の方が理解と信念を持って読経されることは素晴らしいに決まっているし、気を悪くされる方がいたらごめんなさい。