7月21日から、娘の夏休みが始まった。シングルファザーに限ったことではないが、親にとって夏休みは試練の時期だと思う。


昼間働くためには、娘を何とかしなければいけない。小学3年生の娘を一人で家に置いておくわけにはいかないのだ。

やむなく学童保育にあずけることにしたが、大変な長時間になる。朝8時にあずけに行き、夕方6時に迎えに行くので、その間、まる10時間。

あまりの長さに、娘は、最初の2日間で夏休みの日誌をほぼ全部終わらせてしまった。さらに夕べ、暇だからドリルを買ってくれと言われ、慌てて本屋に走った。


勉強ができて良いこととも言えるが、娘が気の毒になる。親に取っても試練だが、娘こそ大試練だろう。

「大丈夫だよ!」と言ってくれる娘の健気さをみていると、何かの折には、ご褒美をあげようと思わされる。

普段、子供をあずかってくれて、退屈もさせず、給食まで与えてくれる「学校」というものが、今更ながらとても有り難く思えている。

親に取っての試練の話に戻そう。まず、何をおいても毎日の弁当作りだ。夏休みが始まって以来、弁当のために、朝支度が倍の時間になった。

  • 1日目


  • 2日目


  • 3日目


  • 4日目


全く変わり映えしない。

保冷剤や抗菌シートを入れたり、キティのバランを添えてみたりなど、実はそれなりに努力しているのだが、達成感は全くない。

もともと自分の弁当は、ご飯に冷凍牛丼を掛けて終わりといった感じで、手を掛ける気もさらさらなく、気楽に作っていた。

しかし娘に食べさせるとなると、そうもいかない。これでは食べないのではないか。これではお友達に見られて恥ずかしいのではないか。迷いながら詰める弁当は、ストレスの塊である。しかし迷ったところで、結局のところ大体同じようなものになり、そのことがまたストレスとなってループする。

話が飛躍するが、僕は生まれてから一度もスキーをしたことがない。その理由は、

「降りるために登るのはムダだから」

である。

弁当も同じだ。しょせん食べてなくなるものなのだ。わずか数時間後に跡形もなくなるものに力を注ぐ必要はない。自分の弁当には、だから全く力を注がない。それでいいと思っている。

しかし娘のためにその理屈は通らない。どうせ降りるのに登らねばならないのである。

毎朝、繰り返す弁当作りは、ムダとの戦いであり、さながら修行のようで、夏休みが終わる頃には人間的に成長しているのではあるまいかと思えるほどである。

どうでもいい話に流れたが、娘の弁当箱は、2段を重ねると、このようになる。


これを巾着に入れて、バッグに詰める。


このバッグとポシェットは、彼女の手作りだ。
さらに、


お茶とアクエリアスの2本の水筒を入れたバッグ。これも、彼女の手作りのもので、これらを持たせて、娘を送り出す。

自分が子供の頃、夏休みの始まりの7月の間は、気が遠くなる程、時間の流れを遅く感じた。それが、お盆を過ぎる頃には飛ぶように日が経っていった。

娘にとっても、自分にとっても、軽く乗り越えられる夏休みであって欲しいと思っている。