少し前のことになるが、娘が、ファミリーマートの一番くじで「すみっコぐらし」のねこのぬいぐるみを引き当てた。5月30日のことだ。
 

 
わが家には、「すみっコぐらし」グッズが無数にあって、その総数を把握することなど、とうの昔に不可能になっている。
 
 
すみっコでくらす、慎ましいキャラのはずであるはずの「すみっコぐらし」達は、ずいぶん前から、わが家のむしろ中心に陣取っている。
 
亡くなった妻の看護や介護をしてくださった皆さんは、口を揃えて、

「こちらのお宅にお邪魔してから「すみっコぐらし」に詳しくなりました。」

と言ってくださった。僕の年収の何割かは確実に「すみっコぐらし」のために消費されていると言っていい。
 
あり余る可愛らしさを武器に、人間の方を、むしろすみっコに追いやるのが「すみっコぐらし」の本質なのかも知れない。San-x恐るべしと、メーカーの巧みな戦略に慄然とさせられる気がするが、それらの話は、この記事の本題とあまり関係ない。
 
とにかくわが家には「すみっコぐらし」グッズが多数あり、中でもレアモノである冒頭の写真のねこは、別格に扱われているという話だ。わが家では、いつからかこのねこを「ねこ神様」と呼ぶようになった。
 
例えば、娘と彼女が「ねこ神様」に尋ねる。
 
「ねこ神様、今のマンションを出て、一戸建てに引っ越ししたいと思います。どうでしょうか?」
 
すると、ねこ神様は答える。
 
「良いか、女、子供よ。新しい家が欲しい、引っ越ししたいなどとその場の欲望に溺れてはならぬ。生活を守るためには、身の丈を知ることが必要じゃ。己を知り、身の丈に合った暮らしをするよう心掛けるのじゃ。さすれば物に頼らぬ本来の幸せが手に入るであろう。ゆるゆると考えるのじゃ。身の丈を知るように、身の丈を知るように…」
 
有難いお告げを残して、ねこ神様はお隠れになる。一応、神託を告げるのは、シャーマンの役目をする僕であるが、あくまで、お告げを媒介するだけの役であり、僕の意思は介在させていないという設定である。
 
娘と彼女が「ねこ神様」に尋ねる。
 
「せっかく痩せてきたパパが、最近リバウンド気味です。パパが甘いものを食べたいと言ったらどうすれば良いでしょうか?」
 
ねこ神様は答える。
 
「良いか、女、子供よ。家主が甘いものを食べたいと言ったら、甘いものを2つ与えるが良い。辛い物を食べたいと言ったら、辛い物を3つ与えるが良い。家主を粗末にしてはならぬ。それがこの家に幸せをもたらすのじゃ。好きなだけ甘いものを与えるのじゃ。ためらわぬように、ためわらぬように…」
 
シャーマンの撲は、決して自分に都合の良いお告げを語っているのでなく、あくまで媒介に徹している。しかし、そのシャーマンの目から見ても実に有り難いお言葉である。

娘が、「ねこ神様で遊ぶ!」と言ったときには、時々、このようなやり取りをしているのが、最近のわが家だ。
 
一昨日の土曜日、娘がねこ神様に尋ねた。
 
「ねこ神様、この人がいないと寂しいんですけど、どうしたらいいでしょう?」
 
一瞬、なんのことだか分からなかったが、「この人」とは、彼女のことだと、娘は言った。
 
以前からこのブログに書いているように、彼女は、土日や休日だけ、わが家に来て一緒に過ごしてくれている。平日は娘と僕の2人暮らしで寂しく過ごしており、娘は、早く彼女に来てもらいたいと週末を楽しみにしている。
 
普段、娘は、彼女のことを「○○さん」と名前で呼んでいるが、あえて、娘なりに格式張ったつもりで「この人」と呼んだのだろう。
 
ねこ神様は答えた。
 
「寂しがる必要はない。その者は、毎週訪ねて来て、共に時間を過ごして居る。その間の楽しさを大切に思うのじゃ。寂しがる必要はない。寂しくはないのじゃ。」
 
すると娘が言った。
 
「寂しがらないということは、好きでなくなるということですか?」
 
その後、ねこ神様がなんとお答えになったか、実はよく覚えていない。
 
「この人がいないと寂しい」から、「寂しがらないと好きではない」までの気持ちの流れが何ともいじらしく、思わず素に戻って「なんかいいこと言うなあ」と娘の頭を撫でてしまった。彼女も同じように感じていたと思う。

ねこ神様からのご神託はしっかり告げられず、可愛い可愛いと娘を撫でることで話が流れた。
 
わが家の大量のすみっコぐらし達の中には、妻の形見もあり、娘のお気に入りのものもある。わが家で一緒に過ごすようになってから、彼女もすっかり、すみっコぐらしに詳しくなった。3人で出掛けると、またすみっコ達が増える。

「これが幸せというものでしょうか?」と尋ねたら、きっとねこ神様は「そのとおり」と答えてくれるのだと思う。