苦手なことを1つ挙げろと言われたら、迷わず「料理」と答えてきた。昔からそうで、今後も変わらないと思う。

例えば、調味料。僕が一応使えるのは、砂糖、塩、醤油、胡椒までである。塩コショウは含む。が、その他のものはどう使えばいいのか全く分からない。

小麦粉、強力粉、薄力粉などは、これまでの人生で一度も購入したことがない。他人が使うものであり、自分には無縁なものと認識してきた。

みりん、酒、酢など、僕にとって未知の調味料や、小麦粉、薄力粉、果てはダシやコンソメやらを自在に使って魔法のように料理をする人を、羨ましく思うというより異次元の別種の生き物のように恐れを持って見て来たのが、これまでの人生だ。

介護日記の頃に書いた、過去記事の一部をコピペする。



20代独身の頃の食生活がどうだったかというと、特に土日、趣味に没頭していた僕は、朝、マクドナルドに行って、

「ソーセージエッグマフィンセットと、単品のソーセージエッグマフィンを3つください」

とオーダーし、朝、セットを食べ、昼と夜に単品を1個半ずつ食べて三食終わるとか。

あるいは朝、吉野家に行って、

「牛丼大盛3つください」

と言って、三食終わるとか。

あるいは菓子パンをたくさん買い込んで三食終わるとか。

ちなみに、朝買った牛丼を昼や夜に食べると、良い具合につゆがご飯に染みて、作りたてでは味わえない、別物の美味さを感じることができる。

掃除、洗濯は必要だし、当時から普通にしていたが、食事は、何も手間をかけて、さして美味くもないものを作るより、買う方がいいという考えの僕だった。
 




このような人間が、小学3年生の娘を抱えたシングルファザーになってしまったのだ。

しかし、僕も子の親である。自分一人であれば構わないが、娘に不憫な思いはさせたくない。4月半ば、本格的に娘の世話を一人でするようになったとき、天啓を受けたようにやる気が湧いた。

「とりあえず肉でも炒めてみるか。」

驚かれるかも知れないが、肉を買ってきて炒めたことが、50過ぎの今になってほぼ初めてなのである。

豚バラ肉というのを買ってみた。玉ねぎも買ってみた。玉ねぎの切り方が分からないので、ネットで調べて切った。油も何も使わずにフライパンに放り込み、塩コショウをかけて肉と一緒に炒めてみた。


意外に美味い。娘も食べてくれ、少し嬉しくなった。これが何という料理なのか、僕にも分からない。分からないが、

「肉と玉ねぎを炒めたやつ」

は、僕の得意料理になった。

しかし、何度も繰り返して作るうち、さすがに飽きた。よし、野菜の種類を増やそう。もやしと人参でも加えるか。ここまでくれば「野菜炒め」と名乗っても良いかも知れないぞ。僕もついに「野菜炒め」を作るまでになったか。未知の領域に踏み込むような高揚を覚えた。

当然、人参の切り方も分からないので、ネットで調べた。肉を先に炒めるなどの概念もないので、全部いっぺんにフライパンに入れて炒めた。


別段、問題なく食べられた。が、娘は、玉ねぎだけの方がいいと言った。手間を掛ければ必ず報われるものでもないらしい。親の苦労、子知らずである。

方針を変えよう。1から作ろうとするのが間違いだ。僕は、別段、料理道を極めたいわけではない。要らぬ苦労は不要だ。キャベツと肉を加えるだけでいいと書かれたホイコウロウの素を買ってみた。さらに冷凍餃子を添えた。驚くなかれ、冷凍餃子を焼いたのも、この4月が人生初である。


結果、冷凍餃子は成功。娘も食べてくれた。ホイコウロウは、やや辛く、自分は食べられたが、娘は全く食べなかった。

必ず成功するとは限らない。だがここでひとつ気付きがあった。肉を加えるだけ、キャベツを加えるだけといった「料理の素」を使えば「料理をしているような錯覚」を覚えることができるのだ。

おそらく食品メーカーは、温めるだけで済む、100%完成した料理の素を容易に発売できるのだと思う。そこをあえて98%くらいに抑えて、あと一手間を消費者に任せることで、作り手の罪悪感を取り去っているのだろう。

スーパーで惣菜を買ったのではない。自分は娘のために料理を作っているのだ。心地よい錯覚である。

卵を加えるだけの「かに玉」、豆腐とネギを加えるだけの「麻婆豆腐」、「冷凍餃子」。料理の素に全面的に頼り切り、何かを見失ったような中華料理もどきである。


しかし、ここまで料理の素に頼ると反動が来る。そこで思いついた。

パスタ。
茹でるだけである。


さらにミートソースはレトルト。ウインナーを炒めて添えてみたものの、手間的には料理の素とほとんど変わらない。しかし不思議と罪悪感が少ない。何故だろう。おそらく「家庭で作るパスタはこれくらいが標準である」と錯覚しているからに違いない。

「料理とは、錯覚である。」

この頃から僕は、確信するようになった。念のために言うが、茹でるだけのパスタですら、人生で、ほぼ初めて作ったものである。

6月に入った頃から、夕飯用のサラダを朝のうちに用意するようになった。自分用、娘用と、自分の昼の弁当用だ。弁当のおかずには、冷凍牛丼をかけており、手間はない。

が、恍惚たる錯覚感がある。
「朝のうちに、サラダ作ってるんだよねー、弁当のついでにね。」
この「弁当のついで」というのが、いかにも手慣れた感じがして錯覚できるのである。



肉じゃが。
先週に入って初めて作った。調味料を組み合わせて作ることなど不可能とあきらめていた僕だったが「献立いろいろつゆ」とやらを使えば、他の味付けナシで作れるらしいのだ。

ネットのレシピどおり作ってみたら、なんと出来た。



さらにこれ。


「昨日の夕食に作った肉じゃがが余ったから弁当にしたんだよねー、ありあわせで。」

この手練れ感。錯覚が肥大してこぼれそうである。



やきそば。


今日初めて作った。週末に彼女が、焼きそばなら簡単なんじゃない?と勧めてくれたことによる。

このように、何やかやと料理をしているが、しかし、夕方6時過ぎに娘を迎えに行って、それから準備するのは、それなりに大変だ。職場でも時々、食事をどうしてるのかと聞かれることがある。

そんなとき、僕はこう答えるのである。


「朝のうちに下ごしらえだけしてるんだよね〜」

恍惚である。

世間並にはとても届かないが、本格的にシングルファザーを始めて約2ヶ月、少し慣れてきたような気がしている。