今日、妻の六七日の法要が終わった。
命日から、六✕七日=四十二日が過ぎたことになる。

あと一週間で四十九日が過ぎ、忌明けとなるが、その四十九日法要は、先週土曜日に親しい親戚を呼んで済ませてしまった。少しややこしいが、そのため当面の法要は今日が最後となる。次の法事は、年明け1月3日の百箇日法要だ。

なんと言うか、これまで毎週続いた法要は、それなりに大変だったが、終わってしまうとがっくりと気が抜ける。遺族にとって、四十九日までの期間は、気持ちの整理をする期間でもあるという。

カーナビに任せて運転していたら、「目的地付近です、案内を終わります」と一方的にナビを終えられてしまったときのように、まだまだ気持ちがグダグダなのに放り出されてしまったような心持ちだ。

ましてカーナビなら、目的地付近にまで辿り着いているからいいようなものの、こちらはまだ歩き始めたばかりで、この先20年以上ナビが欲しいところであるのに、わずか四十九日で打ち切られてしまったようで何とも心細い。

次の百箇日は「卒哭忌」と言い、つまり哭くのを卒業、悲しみはここまでにして切り替えようという意味らしい。

法事に手間がかかればいいというものではないが、早い早い、早すぎると誰もが思うのではないか。今日は一日、逆に妻の想い出がとめどなく湧き上がって何とも言えない気持ちになった。

百箇日の頃にはどんな気分になっているだろう。回復は難しい気がするが、気持ちの振れ幅は小さくなっているだろうか。